普通話
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そのあと、中国政府は1950年代から1960年代までの十数年をかけて、普通話の文法を何度も修正しつつ、中国従来の難しい旧字体を放棄して欧米英語寄りの簡体字?音(ピンイン)を導入しつつ、やっと現代社会に相応しいまとまった標準語を創り上げた[2][3][4]。こうして完全体になった普通話は中国唯一の標準語の地位に押し扱われ、厳格な法律で護られている。

2015年の時点で、中国国民のおよそ73%が普通話を使用することができ、2000年の53%から大幅に増加したことが報じられた[5]。2017年の時点で、都市部は90%を超えているが、農村地域で40%前後であった[6]。2020年時点では全国での普及率が80.72%、極度貧困地域では61.56%であった[7][8]
規定
文法

普通話の文法は古く、古代中国語つまり日本語でいうところの「漢文」に基づいて作られてきたものである。しかし、漢文全般を吸収したわけではなく、漢文の中の「白話文」という文法を中心に発展した。

白話文とは7?10世紀の唐王朝の漢詩用語として生まれ、10?13世紀宋王朝では宋詞に採用され、13?14世紀の元王朝では元曲にも採用された文法システムである。中国の文人たちは読者に理解しやすいように、自分の作品に使う言葉をできるだけ簡略化や明確化する方向に進化させていた。700年の時間をかけて、14世紀の明王朝の時にはやっと現代の中国人でも容易に分かる「白話文小説」が生まれ、その白話文の使用頻度は意味も混乱して大量の注釈が必要な古代漢文を一瞬にして超えた。17世紀の清王朝に入ると、同じ中国語でもあって白話文と古代漢文が自然に融合しつつ、百姓人民が話す「口語」と、古代漢文の美しさを取り入れた「書き言葉」、この二つの言語システムに分かれるようになった。

時は19世紀、清王朝の滅亡と共に中華民国が成立した。1910年以降の中国人は西洋と明治維新を遂げた日本に学び、従来の「言文分離」の書き言葉を完全に廃棄させて、白話文運動・言文一致運動新文化運動の三つの運動を展開し、白話文の中の口語を全中国の標準語とした。現代中国の普通話は、その時に生み出された文法を中心にして、西洋、特に英語の文法も参考にして標準文法規則を作成した。
発音

日本の教科書やメディアでは「普通話が北京語の音に基づいて創られた」というイメージが強いが、実際は普通話は中国北方の河北省承徳市?平県の発音に一番近く、いまの北京市民が用いる発音とはやや異なっている[9][10][11][12]

清王朝は利便性のため、全国各地の官吏を同じ言語で話させ、こうして作られたのが北京官話であった。清国が中華民国になると、五四運動や国語運動などの庶民革命が起こり、北京官話や北京市民が話している言葉に基づいて創った「京音」が中華民国の通用語になった。

この京音は、中国共産党の中華人民共和国(つまり現代の中国)では、北京市以外の地域ではほとんど消え去り、中国政府が決めた「普通話」がそれに代わって中国全土の標準語になった。逆に台湾(現代の中華民国)では今だに「京音」が標準語とされ、「中華民国国語」という名前で受け継がれている。台湾の中華民国国語は中国の普通話とまったく同じところもあるが、繁体字注音符号・一部の発音など様々な面で中国と大きく異なる。台湾民主化以降、台湾政府は台湾島の風土習慣に合わせて本来の中華民国国語を改造し、台湾人寄りの「台湾国語」を誕生させ、中国の普通話からはさらに離れつつある。
語彙

普通話は河北省の方言を標準語彙としていて、北京語ではないとはいえ、全中国においては一番北京の語彙に近い。また、?平県方言の発音や語順は北京語よりもずっと簡単明瞭であるため、北京の官僚・学者たちはあまり抵抗感がなく、順従に普通話を受け入れた。その簡単さから、普通話の使用地域は間もなく北京と河北省を超え、急速に東北華北西北西南・江淮など、漢民族が住んでいる地域に浸透していた。浸透する過程の中、中国北方の言い方が全て採用されたわけではなく、中国南方でもっと優雅な言い方があったら遠慮なく取り込み、ついに今日の普通話になった。
歴史
前史詳細は「官話」および「国語 (中国語)」を参照

中国の歴代王朝においては、古くから政治的に何らかの共通語が設けられていたと考えられている。春秋時代、『論語』には孔子が『詩経』や『書経』を読んだり、儀礼を行ったりする際に「雅言」を使ったと書かれており、これは統治階層が使っていた共通語ではないかと考えられている。漢代揚雄方言語彙を記録した書物『方言』には、「通語」という言葉が現れている。モンゴル族に支配された元代には「天下通語」と呼ばれる共通語があったとされる。時代には官話と呼ばれる官吏の使う共通語があったことが知られており、明末に訪れた宣教師は官吏(マンダリン)の言語と呼んだ。明代から清初にかけては南京音を標準音とした南京官話であったと考えられており、満洲民族によって支配された清代になると徐々に首都北京の音を基準とした北京官話が有力になっていった。

中華民国成立と前後して、官話の名称は国語と改められた。日本に潜伏した清国維新派の王照(中国語版)が日本のカタカナを参考に1900年に「官話合聲字母」を発表し、それをベースに国が漢字の読みを統一する国音(標準音)の検討を通じて注音符号が採用された。国音のつづり方は激論の末、各地の発音を折衷したものとなった。新文化運動の時代には言文一致運動にあたる白話文運動が起こり、それまで古典に対する教養を前提とした統治階層の書き言葉である文言文を廃止し、一般民衆が話す言葉に根付いた書き言葉である白話文を使うことが提唱された。紆余曲折を経て、最終的に北京語音が国音となった。
普通話の歴史「標準中国語」も参照

「普通話」という言葉を初めて使ったのは朱文熊(中国語版、英語版)とされる。朱文熊は1906年、『江蘇新字母』において中国語文言・普通話・俗語に3分類した。

中華人民共和国成立後の1955年10月共産党と人民政府は全国文字改革会議と現代漢語規範問題学術会議を招集し、そこで現代漢民族の共通語の名称「普通話」とその内容が確定された。これを受けて教育部は11月、「中学・小学および各級師範学校において大いに普通話を推し広めることに関する指示」を発表した。翌1956年国務院が「普通話を推し広めることに関する指示」を頒布して、普通話の名称と内容を法律として定め、同年5月、「各省(市)教育庁(局)において普通話推広処(科)を設立することに関する通知」を発表した。1957年には教育部が「継続して普通話を推し広めることに関する指示」を発表し、1960年には中国人民解放軍総政治部が「全軍において?音字母を学び普通話を推し広めることに関する指示」を発表し、教育機関や軍隊において普通話を使うことが推奨された。

その後、文化大革命により普通話政策は一旦頓挫することになるが、文化大革命終結後、再開され、1982年11月には第5期全国人民代表大会第5次会議を通過した中華人民共和国憲法第19条に「国家は全国で通用する普通話を推し広める」ことが規定され、普通話の公用語としての地位が確立された。
音韻体系詳細は「?音」を参照

普通話の音韻体系では、21の子音と10の母音音素として立てられている。中国語音節構造は(子音C) + (母音M) + 母音V + (子音C/母音V) / 声調T、すなわち(C)(M)V(C/V)/T である。伝統的な音韻学では、先頭部分のCを声母、M以下の部分を韻母に2分し、それに声調を加えて分析している。普通話では21の声母と39の韻母があり、声調では4種の調類がある。

普通話の音節には入声が存在せず、日本語において「っ」で表す促音に相当する発音がない。

中国語は主として漢字で表記するが、音素を表記するために?音と呼ばれるローマ字が使われる。これに声調記号を組み合わせることで発音を表現する。
声母


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