清王朝は利便性のため、全国各地の官吏を同じ言語で話させ、こうして作られたのが北京官話であった。清国が中華民国になると、五四運動や国語運動などの庶民革命が起こり、北京官話や北京市民が話している言葉に基づいて創った「京音」が中華民国の通用語になった。
この京音は、中国共産党の中華人民共和国(つまり現代の中国)では、北京市以外の地域ではほとんど消え去り、中国政府が決めた「普通話」がそれに代わって中国全土の標準語になった。逆に台湾(現代の中華民国)では今だに「京音」が標準語とされ、「中華民国国語」という名前で受け継がれている。台湾の中華民国国語は中国の普通話とまったく同じところもあるが、繁体字・注音符号・一部の発音など様々な面で中国と大きく異なる。台湾民主化以降、台湾政府は台湾島の風土習慣に合わせて本来の中華民国国語を改造し、台湾人寄りの「台湾国語」を誕生させ、中国の普通話からはさらに離れつつある。 普通話は河北省の方言を標準語彙としていて、北京語ではないとはいえ、全中国においては一番北京の語彙に近い。また、?平県方言の発音や語順は北京語よりもずっと簡単明瞭であるため、北京の官僚・学者たちはあまり抵抗感がなく、順従に普通話を受け入れた。その簡単さから、普通話の使用地域は間もなく北京と河北省を超え、急速に東北・華北・西北・西南・江淮
語彙
歴史
前史詳細は「官話」および「国語 (中国語)」を参照
中国の歴代王朝においては、古くから政治的に何らかの共通語が設けられていたと考えられている。春秋時代、『論語』には孔子が『詩経』や『書経』を読んだり、儀礼を行ったりする際に「雅言」を使ったと書かれており、これは統治階層が使っていた共通語ではないかと考えられている。漢代、揚雄が方言語彙を記録した書物『方言』には、「通語」という言葉が現れている。モンゴル族に支配された元代には「天下通語」と呼ばれる共通語があったとされる。明・清時代には官話と呼ばれる官吏の使う共通語があったことが知られており、明末に訪れた宣教師は官吏(マンダリン)の言語と呼んだ。明代から清初にかけては南京音を標準音とした南京官話であったと考えられており、満洲民族によって支配された清代になると徐々に首都北京の音を基準とした北京官話が有力になっていった。
中華民国成立と前後して、官話の名称は国語と改められた。日本に潜伏した清国維新派の王照(中国語版)が日本のカタカナを参考に1900年に「官話合聲字母」を発表し、それをベースに国が漢字の読みを統一する国音(標準音)の検討を通じて注音符号が採用された。国音のつづり方は激論の末、各地の発音を折衷したものとなった。新文化運動の時代には言文一致運動にあたる白話文運動が起こり、それまで古典に対する教養を前提とした統治階層の書き言葉である文言文を廃止し、一般民衆が話す言葉に根付いた書き言葉である白話文を使うことが提唱された。紆余曲折を経て、最終的に北京語音が国音となった。
普通話の歴史「標準中国語」も参照
「普通話」という言葉を初めて使ったのは朱文熊(中国語版、英語版)とされる。朱文熊は1906年、『江蘇新字母』において中国語を文言・普通話・俗語に3分類した。
中華人民共和国成立後の1955年10月、共産党と人民政府は全国文字改革会議と現代漢語規範問題学術会議を招集し、そこで現代漢民族の共通語の名称「普通話」とその内容が確定された。これを受けて教育部は11月、「中学・小学および各級師範学校において大いに普通話を推し広めることに関する指示」を発表した。翌1956年、国務院が「普通話を推し広めることに関する指示」を頒布して、普通話の名称と内容を法律として定め、同年5月、「各省(市)教育庁(局)において普通話推広処(科)を設立することに関する通知」を発表した。