普墺戦争
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両州の処遇を巡ってプロイセン王国オーストリア帝国は対立を深めた。6月7日、シュレースヴィヒに駐屯していたエドヴィン・フォン・マントイフェル将軍のプロイセン軍がホルシュタインに侵入したことで、普墺戦争は勃発した。11日にはオーストリアがホルシュタイン襲撃の非道をフランクフルトのドイツ連邦議会に訴え、14日にプロイセンの罪の決議を迫り、プロイセンはドイツ統一を妨げているオーストリアの排除を論じ、決議ではプロイセンの罪が断じられた。ドイツ連邦によるプロイセンの討伐が決まり、プロイセンは反発してドイツ連邦を脱退した。[2]

このように1866年6月15日プロイセンは宣戦布告を行って、ホルシュタインのオーストリア管理地域を占領した。プロイセンの行為を侵略的と見たバイエルン王国ザクセン王国ヴュルテンベルク王国ヘッセン選帝侯国などはオーストリア側に付いたが、北ドイツの小邦はプロイセンに付いた。6月20日にはオーストリアのヴェネト領有を不満とするイタリア王国も、プロイセンと同盟して宣戦布告し、第3次イタリア独立戦争が開始された。

外部の勝敗予想は五分五分であったが、当時のプロイセンには軍事的天才がいた。参謀総長大モルトケである。プロイセン参謀本部は軍隊の迅速な移動のため元々道路整備に熱心だったが、大モルトケは当時の最新技術である鉄道線と電信設備を重視し、オーストリア国境までこの2つをあらかじめ整備させていた。そのため、開戦してからのプロイセン軍は、オーストリア側の予想を超えた迅速かつ整然とした進撃を行うことができた。
ホルシュタインの戦い

オーストリアから離れた飛び地であるホルシュタインキールに本営を置いていたオーストリア軍のガブレンツ将軍は、歩兵1個旅団と龍騎兵1個連隊の合計約4,000人、ホルシュタイン官吏を率い、アウグステンブルク公を伴ってキールからハンブルク付近のアルトナへ撤退した。シュレースヴィヒに駐屯していたプロイセン軍のマントイフェル将軍は、歩兵2個旅団、騎兵1個旅団の合計約12,000人を率いてアイダー川を渡河して南下・侵攻し、ホルシュタインのキール、レンツブルク、イツェホーの諸都市を占領した。

11日、イツェホー市では地主会を解散させ、会議場を閉鎖して、守兵に門を守らせた。12日夜、プロイセン軍の優勢を察したガブレンツ将軍はアルトナを離れ、鉄道でハノーファーカッセルフランクフルトを経てボヘミア方面の主力へ合流した。無血のままシュレースヴィヒからオーストリア軍を追い払ったマントイフェル将軍のプロイセン軍(歩兵12個大隊、騎兵8個大隊、砲兵6個大隊)は、進退の自由を得たため、西部ドイツ戦線への投入が可能となった。一方、ガブレンツ将軍のオーストリア軍(歩兵5個大隊、騎兵2個大隊、砲兵1個大隊)は本国兵力に合流することに成功したが、友邦のドイツ諸邦への援護が不可能となった。

結局、シュレースヴィヒ?ホルシュタイン州はプロイセンの支配地となり、新たに州総督にフォン・シールブレッセンが任命された。[3]
ドイツ西部諸邦の戦い

プロイセン軍の本体はザクセンを経て、オーストリア正面となるボヘミアの主戦場へ向かったが、それとは別にオーストリア側についたドイツ西部諸邦についても派兵を行った。6月15日にはドイツ連邦議会で反プロイセン票を入れたザクセン王国ハノーファー王国、ヘッセン選帝侯国(ヘッセン=カッセル)の3か国に局外中立と軍備解除を12時間の回答期限で要求し、回答がなかったために同日の夕方には開戦を布告し、16日より侵攻を開始した。当時、ドイツ連邦には対フランス用の5個の要塞が整備されており、交渉の決裂によりマインツルクセンブルクランダウラシュタット、ウルムの要塞からベーエル少将のプロイセン軍は退去してヴェッツラーヘ集結、オーストリア兵はヘッセン公アレクサンダーの指揮下でフランクフルト付近に集合した。両軍の状況は次の通りであった。[4]

6月15日、プロイセン王国がドイツ西部諸邦へ派遣したマイン軍の編成は、司令官にファルケンシュタイン大将、参謀長にクラーツュシロー大佐、その指揮下にはゲッペン中将の第13師団約14,000人(プロイセン領ヴェストファーレンより召集、ミンデンに集結)、マントイフェル中将の集成師団約14,000人(ホルシュタインより南下)、ベーエル少将の集成師団約20,000人(連邦要塞より退去、ヴェッツラーに集結)の以上約48,000人。目的はドイツ西部諸邦とオーストリア本国との分断。

オーストリア側の兵力は当初統一指揮がなかったが6月旬から、連邦軍第7軍団長であったバイエルン国王カールが司令官となり、直率の約50,000人(歩兵3個半師団、騎兵1個師団、砲兵1集団。ヴュルツブルクに集結)、また指揮下にハノーファー王のハノーファー軍約20,000人、ヘッセン公アレクサンダーの第8軍団約53,000人(大砲114門、内訳はヴュルテンベルク兵14,000人・大砲42門、バーデン兵12,000人・大砲38門、ヘッセン兵10,000人・大砲24門、ナッサウ兵5,000人)以上約120,000人。目的はプロイセン軍のテューリンゲン以北への駆逐とヴェストファーレン領のプロイセン本国からの分断およびハノーファーの援助であった。

プロイセンは開戦期限の15日夕方から行動を開始し、3方面より攻勢を取った。北方のマントイフェル軍はハンブルクから南進、西方のゲッペン軍はミンデンから東進、ハノーファーを目指し、南方からベーエル軍がヴェッツラーからカッセルへ北進して包囲を狭めた。ハノーファー軍は戦備も戦意も乏しく、第8軍団は雑軍の集合であってバーデン兵は友邦プロイセンへの攻撃を渋った。15日、ハノーファーではホルシュタインから撤退してきたカブレンツ将軍のオーストリア軍がハノーファーの防備も固めるどころか深夜に鉄道でゲッティンゲンへ去ったことで動揺が広がった。16日の朝、ハノーファー王ゲオルクは失明にもかかわらず兵力をゲッティンゲンに集中してプロイセン軍に抵抗しようとした。西方から東進したゲッペン軍は16日朝にミンデンを進発して抵抗もなくシュタットハーゲンへ進出、更に17日午後5時にハノーファー市を占領した。18日には同国政府を掌握し、国民も支配に従った。


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