開戦以来、快進撃を続けた日本軍は有効な李氏朝鮮軍の抵抗をほとんど受けないまま約2ヶ月で平壌・咸興などまで急進撃をした。漢城(ソウル)を起点に朝鮮半島各地へ展開していた日本軍であったが、慶尚道の釜山から漢城を結ぶ三路の後方基幹ルートの確保や全羅道方面に至る西進作戦には積極的でなかった。李朝軍の主力を粉砕し、北方への進撃も予想外に進んだため、晋州城を攻略する若干の余裕が生じた。それまで晋州城は、釜山から漢城への侵攻路から外れていたため攻撃を受けていなかった。また、朝鮮では晋州城と平壌城が堅城との評価を受けていた。 攻略作戦を発動した。日本勢は晋州城攻略のために細川忠興、長谷川秀一、木村重茲などの20,000弱の軍勢を編成し、釜山を出発して9月23日に昌原を攻めた。慶尚右兵使の柳崇仁は官軍および収容した敗兵を指揮して抵抗したが日本軍に大敗した。敗走した柳崇仁は後方の晋州城へ入ろうとするが、部下であり守将の晋州牧使・金時敏は日本軍の突入を怖れて城門を開く事を拒否した。やむなく柳崇仁は城外で敗兵を再編成して日本軍に野戦を挑むが敗死した。 10月4日、咸安を経由して到着した日本軍の晋州城包囲が始まり6日より攻撃が始まった。晋州城では金時敏を中心に昆陽県監・李光若らが指揮する約3800人の兵士に加え、多くの避難民が城内で防戦に努めた。また城外では郭再祐の配下などの慶州道義兵約1200が日本軍の背後を攻撃し、7日の夜からは崔慶会・任啓英など全羅道で敗兵を再編成した軍約2500が到着して城外で遊撃戦を行った。日本軍は一時攻城を中断して遊撃軍を牽制し、10日朝より攻撃を再開したが晋州城は容易に攻略できないと判断し、長期戦を厭って退却した。 旧参謀本部編纂『日本戦史 朝鮮役』では、この援兵の行動について、直接日本軍と戦闘を交えたものではなく、遠巻きに声援を行って日本軍を牽制しただけとしている。 晋州城防衛の中心であった金時敏は日本軍の鉄砲によって重傷を負った。李朝軍にも撤退する日本軍を追撃する力はなかった。こうして第一次晋州城攻防戦は李朝軍の防衛成功で幕を閉じた。なお、金時敏は攻防戦の後に傷の悪化によって死亡したが、日本側では城を守りきった金時敏を官職の牧使の発音から「もくそ」(朝鮮語の発音は「モックサ」)、晋州城を「もくそ城」と呼び高く評価した(「もくそ」の当て字は「木曽」)。のちに京都で「もくそ官」として晒されたのはこの金時敏ではなく、第二次攻防戦の際に死亡した後任牧使の徐礼元の首である。 日本軍 朝鮮軍
第一次攻防戦直前の状況
第一次攻防戦
第一次攻防戦における日本・朝鮮両軍の編成
細川忠興 3500人
長谷川秀一 5000人
木村重茲 3500人
新庄直定 300人
糟屋武則 200人
太田一吉 160人
等 約30000人
晋州城守備金時敏 3800人
後詰の軍 3700
第二次攻防戦詳細は「第二次晋州城攻防戦(英語版