時間
[Wikipedia|▼Menu]
7日をひとまとまりと見なす文化は、(確かなことは判らない面もあるが)バビロニアが起源だとも言われている。そしてユダヤ人がバビロニアに捕虜として連行された時に(バビロン捕囚)その地でその習慣を取り入れ、ユダヤ教文化からキリスト教文化へと継承され、同文化が広まった結果7曜制も世界に広まったと言われている。キリスト教と一体化していた王権と敵対・打倒し成立した革命政府(たとえばフランス革命政府、ロシア革命政府など)では7曜制を廃止して10日や5日を週とする制度を定めた時期もあったという[11]

機械式時計が制作されるようになると、天体とは切り離された人工的な時間概念が意識されるようになった。時計は、より短い周期で振動するものを採用することで精度を上げる技術革新が続き、遂には原子の発する電磁波周波数によって精密に時間を計測できるようになった。これが原子時計である。

現代の国際単位系では、1967年以降、時間の基本単位として原子時計によって定義している。すなわち、「秒(記号は s)は、時間のSI単位であり、セシウム周波数 ?νCs、すなわち、セシウム133原子の摂動を受けない基底状態の超微細構造遷移周波数を単位 Hz(s?1 に等しい)で表したときに、その数値を9192631770 と定めることによって定義される[12]」とされている。国際単位系におけるこの秒の定義は、世界的に統一されたものとして、社会生活や産業活動において最もよく使用されている。「時刻」も参照
時刻詳細は「時刻」を参照

時刻とは、ある特定の一瞬のことである。別の言い方をするなら、時の流れの中の一点(時点)ということである。

時刻の表し方は、歴史的に見て様々な方法がある。古くは日の動きで決めた。日の出という時刻があり、日没という時刻がある。また日が南中する時刻が正午 (noon) とされた。

なお、一日のいつを一日の始まりの時刻と見なすかは文化圏によって異なっている。アラブ人ユダヤ人日の入を一日の始まりとしている。またギリシアにある正教会などでも、他の地域の正教会でも、日没の瞬間が一日の始まりだとされている。今日でもそうだとされている。一日はの中で始まり、やがて夜明けを迎え、を迎え、最後に一日の終わりである夕暮れを迎える。同教会の修道士たちは現代でもそうした時刻観にもとづいた時間割で日々の生活を規則正しく送っている。

一方で、日の出の瞬間を一日の始まりだと見なしている文化も多い。バビロニア人エジプト人は日の出を一日の始まりの時刻だとしていた。



古代宗教における時間

ここから先は時代に沿って、様々な時間観を見てゆく。

古代宗教における時間については、ミルチア・エリアーデが透徹した解釈を行った[13]。聖なる時間によって俗なる時間は隔てられ、中断される[13]。聖なる時間をその前後の俗なる時間から区別するのは、ヒエロファニー(hierophany、聖なるものの顕現)である[13]。周期的に営まれる祭儀は、本来、俗なる時間を中断してが顕現する聖なる時間なのだという[13]バラモン教そしてヒンドゥー教では全てのものは輪廻しているという。写真はチベット仏教の仏画に描かれた六道輪廻の環。

聖なる時間は可逆的で、反復可能である[13]

人は、通俗的な時間を中断する力をもった祭儀を周期的に営むことで、聖なる時間へ立ち帰り、神々と同一化する。これは真実在への渇望にもとづく[13]

神々による世界創造の時間が、あらゆる時間の原型とされた。聖なる時間は、世界が創造された根源的時間を象徴する。宇宙の原初において聖なるものが顕現した根源的時間を周期的に再現する、ということが宗教暦の基盤である[13]祝祭はたんなる記念日ではなく、神話的出来事を再現している[13]

周期的祝祭のうち、重要なのは新年である。多くの民族の言語で、「世界」をあらわす言葉が同時に「年」をも意味することが指摘されている[13]。これは、世界が新年ごとに再生し更新されている、という観念である。したがって新年は世界創造の再現であり、新年ごとに原初の生命力を更新して再生する[13]

ここにあるのは円環的な構造をもち、無限に反復する時間である。こうした円環的時間への信仰は、時間の周期的な全面的再生への願望を生み出している。世界と人は周期的に創造?存続?終末的破滅?創造…を繰り返す(Great Year「大年」)[13]。時間は宇宙の創造から破滅にいたる一周期を終えると、さらに他の周期を始め、完全に再生する[13]。ここには永遠に対する希求があるという[13]

仏教

仏教の時間理解は基本的に現在指向である。それは前世来世も説かなかったブッダの現世指向に起因するものらしい。転生説を容れるとしても、それは円環時間観の存在を示すことにならない。転生が、計測される同一の時間軸の上に起こるものとされていないからである。物事はすべて移ろい行くものであり、不変な存在などない(諸行無常)というのが仏教の根本的な認識である。アビダルマではこれを「すべての存在は極分化された一瞬にのみ存在し、瞬間毎に消滅する」(刹那滅)という思想として展開した。従って、計測される時間の外にある。龍樹に代表される空観における時間もまた、計測時間の外で現在意識を軸に考察されている。
ギリシャ神話

ギリシャ神話には時にまつわるが二柱ある。カイロス (Καιρ??, Kairos)[注 3] は一瞬を表す神であり、もう一柱のクロノス (Χρ?νο?, Khronos) は連続した時を表す神である。
古代ギリシア

ある哲学者らは、時間をのように回り続けるイメージで捉えた。時間を円と考えると時間に始まりや終わりがあるかないかという面倒な問題が避けられる利点がある。似た考えは、マヤや古代インド文明などにも存在した[14]
古代ローマカルペ・ディエム」の句が上部に掲げられた日時計

古代ローマのホラティウス(紀元前65年 - 紀元前8年)が詩に残したCarpe diem、カルペ・ディエムという句は、直訳では「その日を摘め」、つまり「今日という一日を大切にしなさい」「今という時をよく味わいなさい」という意味である。人々がつい忘れがちなことを思い出させてくれる深みのある句として、現在に至るまで繰り返し引用されている。
ユダヤ教・キリスト教

ユダヤ教には円環的な時間観も見られ、その影響がキリスト教にも見られはするが、キリスト教にはそれを超えた反復不可能の一回的な時間観がある[13]

キリスト教の時間観にとって決定的なことは、神の子の受肉としてのイエス・キリストこの世への到来、その復活という、歴史のただなかへの一度かぎりなされたとされる神の啓示である[13]。これは反復されない、一回的で決定的な出来事とされ、それを唯一の根源としてキリスト教の救済史観が成り立っている。

キリスト教では、神の創造もただ一度で完了した過去の業にすぎないものではなく、それと同時に伝統的に「不断の創造」として現在の事実とされ、R.K.ブルトマンやC.H.ドッドなどは終末についても現在性があると指摘している[13]

キリストの出来事が歴史の中心とされ、それを通して創造や堕罪、終末再臨が理解される時、これらのことは不可逆的な直線的時間の上に配置され、また現在の事実として主体的に反復される[13]
アウグスティヌス


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:138 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef