このほか、江戸時代の城下町においては、城において太鼓で時刻を知らせた。 日本では1873年以降、西洋式の時法が導入された。それに先立つ1871年、正午の時報に大砲が使用されるようになった[1]。12時(正午)に鳴らされる報時砲を午砲と呼ぶ。正午を「昼ドン」というのはここから来ている、という説もある[要出典]。 1902年(明治35年)には報時球(タームボール、タイムボール)による時報が主要港で行われるようになった[1]。日本の主要な港湾には、船舶のために報時檣(ほうじしょう)が設備され、これによって報時された。 日曜日・祭日を除く毎日11時55分に、報時球が報時檣の横桁に引き上げられ、12時(正午)に東京天文台から直通電流が断たれるとこれが落下する。この落下の瞬間が正午である。報時球の塗分けは上から順に赤色・白色・赤色で、報時檣の色は白色である[3]。誤った時刻に落下したときは万国船舶信号旗 W が掲げられ、13時に再び繰り返される。故障で報時信号を発せられなかった場合は同信号旗 D が掲げられる。 報時檣が設備されたのは横浜・神戸・門司・大阪・長崎であったが、長崎は独立観測によって報時された。 日本の近代には、報時灯 20時55分になると三角形の緑灯3個に点じられ、約2分間明滅したのち不動点灯として、21時00分に消灯される。ただし、不動点灯中の予備信号として、20時58分および同59分に瞬時消灯される。 もし報時に誤りがあれば、21時00分10秒から30秒間明滅し、その旨知らせ、さらに21時30分に同様の信号をおこなう。故障によって報時することができない場合は点灯されない。 日本で電信による時報が始まったのは1888年(明治21年)である[1]。 日本の郵便局では、日曜日、祭日を除く毎日11時57分になると、全国の一、二等局および特定三等局に通じる電信線は通信が中止され、東京市の中央電信局の自動報時機に接続され、各郵便局の電鈴が鳴り始め、12時(正午)に東京天文台で自動報時機に通じる電流が断たれると電鈴が鳴り終わる。この瞬間が正午であり、郵便局の電信係に行けばこの電鈴を聞くことができた。 イギリス同様、報時球と報時砲は、電信による時報が実用化されると、それに制御されるようになった。 1912年(明治45年)からは逓信省銚子無線電報局からの電波による時報が開始された[1]。東京天文台では銚子局経由で無線電信によって報時が行われ、毎日、11時および21時に同局および海軍無線電信所船橋送信所から放送された。それぞれその5分前に直通電線によって東京天文台と無線電信局の報時用時計が連絡制御され、自動的に報時が行われた。報時の形式は学用式および一般用がある(理科年表の附録)。 さらに正確な報時が必要な場合は、毎月15日の官報および翌月の天文月報に掲載される正誤表で補正する。 1927年(昭和2年)には逓信省が検見川送信所から電波を利用した時報を開始し、この送信所はのちにJJYとなった[1]。 屋外スピーカーによる時報は、東京ではサイレンを用いたものが1929年5月1日から行われた。東京市教育局社会教育課が管轄し、毎日天文台から正確な時刻の通報を受けて時計を較正し、これによって全市のサイレンが制御された。サイレンは1分間鳴り響き、鳴り終わった瞬間が正午であった。 域内に市町村防災行政無線による広報システムが構築されている地方自治体などの一部では、各地に設置された屋外スピーカーで時報を行なっている。毎時ではなく、主に特定の時間(朝・正午・夕方など)に、音楽、サイレン、アナウンスなどをスピーカーから鳴らし、時報としている。時刻を伝える目的のみで使用すると防災行政無線の目的外使用になるおそれがあるため、設備が正常に作動しているかを確認するための試験放送[4]や、防犯という名目で行われている。季節によって曲や流す時間を変える場合がある。 夕方の場合、全国的に、平日休日問わず16時から18時の間に児童の帰宅を促すアナウンスを音楽と合わせて流す例がある。静岡県浜松市天竜区の一部地域では、夏休みシーズンと年末年始のみ21時に「故郷」を流して児童の就寝を促している。 また、選挙の投票日のたび、投票所の開場時刻である7時と閉鎖時刻の20時(地域によっては閉鎖時刻の1時間前)にサイレンを吹鳴している自治体もある。
日本の報時砲・報時球
報時灯
日本の電信時報
日本の無線電信による時報
屋外スピーカー
防災行政無線子供に帰宅を促す時報放送の例(千葉県船橋市の防災行政無線)。
防災行政無線で時報を流す自治体の例
群馬県高崎市新町
長崎県壱岐市芦辺町地域
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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