本格的な時報サービスは、1955年(昭和30年)6月10日(時の記念日)に東京223番(利用時間 午前6時から午後10時)で試験的に開始された。同年1月開始の「天気予報サービス」に続いてのことだった。9月1日には横浜1178番、10月1日には大阪1178番、11月3日には名古屋511番、12月1日には京都・神戸1178番で順次サービスを開始。
1957年(昭和32年)1月1日から正式なサービスとして展開され、1964年2月までは地域ごとに電話番号が異なっていた。1964年3月から全国で117番に統一された[18]。
時報の音声は、東京または大阪の電話局(1972年までは東京、大阪、広島、仙台、札幌、福岡)に設置された専用の装置から送られる。当初、時報の音声は計12巻に全パターンが収録された磁気テープを自動再生していた。10秒おきのアナウンスを12時間分(午前・午後は区別せず流用)、合計4,320回のアナウンスを収録するため、密閉された録音室に氷柱を立てて浅田飴を用意し、交換語調競技会の優勝者が一つ一つのパターンを読み上げて収録が行われた[19]。
磁気テープは耐久性に問題があり、同年に音声合成を用いた装置が開発された。この装置は時間補正可能なクロック信号を生成する時刻装置と、事前収録の音声断片を再生する時報サービス装置で構成される。時刻装置は水晶発振器と電子回路(初期は同期電動機やカム機構、継電器の組み合わせ)、時報サービス装置は音声断片が記録された半導体メモリ(初期は磁気ドラム)を搭載している。時刻は、当初はJJY(日本標準電波)、後にはテレホンJJYと呼ばれる信号(後述)で校正されている[18][20]。
サービス開始当初の声はニッポン放送アナウンサー真壁静野(アナウンス例「ただいまから○時○分○秒〈丁度〉をお知らせします」)、1991年(平成3年)3月15日の正午以降はナレーターの中村啓子(アナウンス例「午前〈午後〉○時○分○秒〈丁度〉をお知らせします」)が担当している[要出典]。
アナログ方式の電話交換機がまだ多数使われていた1970年代から1980年代当時の交換機は漏話が発生しやすく「同時に時報へ電話をかけてきた人と会話ができる」という現象がまれに発生した。まだインターネットやツーショットダイアルが普及していなかった時代に、見ず知らずの人との会話を楽しめるこの現象は、当時の中高生の間で瞬く間に知れ渡り、深夜になると親の目を盗んで時報に電話を掛ける若者が続出した[要出典]。交換機改修・デジタル交換機への更新等が進んだことにより、現在は漏話が起こることが無くなっている。
かつてのアナログテレビ放送用の業務用回線(NTT中継回線)では、中継素材のやりとりをしない際の画面でフィラー音声として電話時報を流していた(映像はテストパターン)。通常視聴者が見聞きすることはできなかったが、放送事故や放送休止などの際にまれに視聴することができた[要出典]。
標準電波局「JJY」も参照
各国では「標準電波」と呼ばれる、正確な時刻情報を含んだ電波が、標準周波数局と呼ばれる無線局から発信されている。一種の時報といえる。
日本ではまず、1940年(昭和15年)1月30日から2001年(平成13年)3月31日正午[21]まで、千葉市検見川の検見川送信所から短波による標準電波放送が行われていた。アメリカ合衆国のWWVに続く標準電波局として世界で2番目であった。開局当初は受信機調整等向けの周波数標準としての役割だけで、1948年(昭和23年)8月1日から正式に時刻情報の重畳が開始された。その後東京都小金井市への送信所移転を経て、末期には茨城県猿島郡三和町(現・古河市)のNTT名崎送信所から発信を行った。短波帯標準電波から長波帯への移行に伴う後述の「JJY」の正式運用開始に伴い、廃止された。
1999年(平成11年)6月10日以降、独立行政法人情報通信研究機構がコールサイン・JJYを発している。送信所はおおたかどや山標準電波送信所(福島県田村市・川内村境)およびはがね山標準電波送信所(佐賀県佐賀市・福岡県糸島市境)の2カ所。
標準電波は、放送局や公共交通機関など、正確な時刻が要求される現場において、電波時計などの機器の較正に用いられている。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 人が視覚として受け取る「光」は、聴覚として受け取る「音」よりも、空間中を速く伝わるため。