時刻
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深夜0時以降は、NHKは通常の12時制で暦通りに表現する。テレビ・ラジオ欄は、新聞各紙では12時制、インターネット番組表サイトは24時制が多い。

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}民間放送(民放)は放送システムの関係[独自研究?]から放送上は12時制だが、24時(=翌午前0時)以降の時刻をシステムの切り替えタイミングとなる28時(翌午前4時) - 29時(翌午前5時)[独自研究?]までとして使う場合が多い。午前4時ないし午前5時までは当日の放送ではなく前日の放送の続きとして扱う「30時間制」の変則的な用法であり、これは深夜放送を行なうラジオなどの各放送局ウェブサイトの番組表で確認できる特徴の一つである。このように時刻表現の用法が異なるために、NHKと民放各局を比べると以下のような日時表現の違いが確認できる。
例:日曜午前0時の時刻表現


NHK:

日曜午前0時。場合により「土曜深夜」と補足することもある[12]


民放:

日曜午前0時 - テレビ朝日[13]、日本テレビ[14]

土曜24時0 0 - TBS[15]、フジテレビ[16]

土曜深夜0時 - テレビ東京[17]

24時を越える時刻表記については「30時間制」を参照

自衛隊においては午前午後の錯誤を防ぐ目的で24時制が採用されている。例えば午後1時20分の場合は1320のように4桁のアラビア数字を用いて表記し、ヒトサンフタマルと「粒読み」[注 3]で発音する[注 4]。また、時間帯を示す場合は、4桁のアラビア数字の末尾に対応するアルファベットを記し、通話表に則った発音をする[注 5]
歴史

もともと人間の日常生活は太陽と密接に結びついているため、洋の東西を問わず、時刻は太陽の位置や角度と深く結びつけて考えられてきた。

バビロニア人や古代エジプト人は日の出、アラブ人やユダヤ人は日の入を一日の始まりとしていた。

時刻はしばしば、太陽の時角つまり子午線からの角度によって決められた。これを現代では「真太陽時」という。

また古代では、しばしば日の出や日の入りの間を等分する方法(日没と日の出の間を等分する方法)もとられた。季節によって太陽が出ている時間の長さは伸びたり縮んだりするわけであり、それと連動してひとつの時刻区分の長さも伸び縮みしたので、現代ではこれを「不定時法」という。
ヨーロッパ

西洋では、古代には日の出と日の入りの間をそれぞれ十二等分する不定時法が用いられており、季節によって長さが異なっていた。後に一日を二十四等分する定時法に改められた。バビロニア人やエジプト人は日の出、アラブ人やユダヤ人は日の入を一日の始まりとしていた。定時法が採用され、さらに時計が発達してからは、夜半(太陽の南中の対極)を一日の始まりとし、南中を12時、その以前を午前、以後を午後としてそれぞれを12等分(0 - 12時)する現在の時法となった。より精密な機械式時計の発達とともに、13世紀にさらに細かな分割である分と秒が作られた。

天文学においては、正午を日界(一日の始まり)とする天文時クラウディオス・プトレマイオス以来使用され続けてきた。これは、夜間の天体観測途中で日付が変わることを避けるためであった[21]。また、天文時は航海においても使用されていた。1925年1月1日以降は、天文学でも真夜中(正子)を一日の始まりとする常用時が使用されている[21]。(経緯についてはグリニッジ標準時#天文時の廃止を参照。)ただし、ユリウス通日は現在も正午を日界として定義されている。
中国

中国では、古代には一日を100等分して1つの分割を「」としていたが、代に、一日を12等分して、夜半から十二支を順に振って子の刻・丑の刻……とする時辰が生まれた。それぞれの分割は「刻」といい、100分割の刻と区別するために「辰刻」(しんこく)ともいう。

代に西洋の時計とともにその時法が導入されて、一日を24時間とする時法も使われるようになった。[要出典]その際、それまでの「時」の半分である西洋の「時」は「小時」と呼ばれるようになった。この名称は現在でも使われており、「小時(xiaoshi)」は時間という意味である。

古代の「刻」は、現在でも一応中国でquarterの音訳で15分の意味で使われている。ただし現代の実生活で使う事は少なく、通常は四十五分や十五分などで言い表している。
日本
時刻制度のはじまり

日本書紀』には660年に中大兄皇子(天智天皇)が漏刻(水時計)をつくり、671年にはこの漏刻を新しい天文台に置いて太鼓と鐘で時を知らせたとの記録があり、これが日本における時刻制度の始まりとされている[22]。また漏刻が設置された日(現在の太陽暦で6月10日)は、1920年に「時の記念日」に制定されている[23]
区分法の別とその変遷

日本では、中国の一日を12等分する時法や、100等分する時法が導入された。当初は一日を12等分する定時法で、室町時代ごろから日の出と日の入または夜明けと日暮れの間をそれぞれ6等分する不定時法が用いられるようになった。天文[要曖昧さ回避]や暦法で使う時法は一貫して定時法だった。江戸時代には、その不定時法に表示を合わせた和時計も作られた。

日の出と日の入は地軸が傾いている地球では毎日少しずつ変化し、また、地軸が4.1万年の周期で約21.5度から24.5度の間で変化(ミランコビッチ・サイクル)しているため、不定時法による時刻も仙台藩(現・宮城県等)と薩摩藩(現・鹿児島県等)のように離れた土地でも異なり、また、同じ太陽暦の月日の同じ土地であっても室町時代と明治時代では微妙に異なることになる。地軸が23.4度である現在の日本において札幌東京との日の出時刻を比べると、夏至では札幌 (3:55) が東京 (4:25) より早く、冬至では札幌 (7:02) が東京 (6:47) より遅い[24]
九で表す十二等分法「十二時辰」を参照

時鐘辰刻現在の時法
(前後約1時間)
夜/暁九つ子の刻0時ごろ
夜/暁八つ丑の刻2時ごろ
暁七つ寅の刻4時ごろ
明六つ卯の刻6時ごろ
朝五つ辰の刻8時ごろ
朝/昼四つ巳の刻10時ごろ
昼九つ午の刻12時ごろ
昼八つ未の刻14時ごろ
昼/夕七つ申の刻16時ごろ
暮六つ酉の刻18時ごろ
夜/宵五つ戌の刻20時ごろ
夜四つ亥の刻22時ごろ

室町時代後半から、時刻を時鐘の数で呼ぶようになった。時鐘は、昼に9つ打ち、一刻ごとに1つずつ減らして4つの次は深夜の9つに戻り、また一刻ごとに1つずつ減らして4つの次が昼の9つとなる。

中国の陰陽の考え方では9を特別な数として扱い、もっとも縁起の良い数と考えられていた。このことから、昼を9、以降一刻ごとに9を2倍(9 × 2 = 18)、3倍(9 × 3 = 27)、4倍(9 × 4 = 36)…と増やしている。ただし、この数だけ鐘を鳴らそうとすると最大で54回も鳴らすことになり、これでは数が多すぎるため、十の桁を省略し、結果的に1ずつ減る形となった。

昼と夜で同じ数があるので、これらを区別して右の表のように呼んだ。しかし、江戸時代以前の人々の生活は夜明けから日暮れまでが中心だったことから、昼間の時刻という前提で日常会話では「昼」や「朝」などは省略されていることが多かった。ただし、六つだけは明け方なのか夕暮れなのかわからないため「明六つ」、「暮六つ」と言い分けた。
刻の分割法

一刻の真ん中を「正刻(しょうこく)」と呼び、または一刻を3等分して上刻・中刻・下刻とする分割もあった。また一刻を4等分して、例えば子の刻ならそれぞれを「子一つ」「子二つ」「子三つ」「子四つ」と呼ぶ分割もあった。

日本語では、時辰の半分に当たる時間を半刻(はんとき)、時辰の4分の1に当たる時間を四半刻(しはんとき)と呼び、四半刻は江戸時代には日常的に用いられる時間の最小単位であった。
更点法

夜間の分割については6等分のほか、5等分の更点法もある。日暮れを一更(初更)とし、二更、三更として夜明け前は五更となり、一つの更はさらに一点(初点)から五点まで5等分され、夜明けは五更五点となる。

日本でも更点法は奈良時代から一部で使われたが、どちらかというと更点法は中国や朝鮮で盛んに用いられた。

漢字「更」は中国において更夫(夜番)が更代する意味から、夜間の時刻の呼称に用いられるようになった。「更」がそこからさらに転じて「夜がふける」の意味に用いられるようになったのは日本独自の用法である。
太陽暦の導入と二十四時制

1873年明治6年)1月1日、太陽暦の導入と同時に西洋式の時法が導入された。軍隊内部では、午前・午後の錯誤を防ぐために二十四時制が使用されていた。

1942年昭和17年)10月11日鉄道省が十二時制から二十四時制へ移行、日本国有鉄道にも引き継がれ一般人の間にも二十四時制が普及し現在に至る。


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