似たような問題が他の命名法によっても起こりうる。たとえば「ヴィクトリア朝」という用語をイギリス国外でも用いることができるだろうか。また、たとえイギリス国内であっても彼女が君臨した1837年?1901年を有意義な歴史的期間としてよいのだろうか。この時代区分の名前が19世紀の後ろ3分の2の間の政治的、文化的、そして経済的特徴をよく表しているということを前提として、ヴィクトリア朝という用語は使われている。しかし、時代を区分する用語はしばしばその用法に影響を与えるような肯定的、あるいは否定的意味を内包している。「ヴィクトリア朝風の」という言葉は性的抑圧や階級闘争といった否定的な意味合いを持つだろう。他にも「ルネサンス」という用語には強い肯定的特徴が込められている。そのためこの用語は時折拡大解釈されることがある。イングランドのルネサンスはしばしばエリザベス1世が君臨した時代に対して用いられるが、それはイタリアのルネサンスからおよそ200年遅れて始まったものである。一方で 「カロリング・ルネサンス」という用語はフランク王国の王カール大帝が君臨した時代とその後継者の時代に対して用いられるが、それはイタリアのルネサンスのずっと前の時代のことである。他の例として、そのどちらも「復活」などとは呼べないものであるにも関わらず、「アメリカのルネサンス」という用語が1820年代から1860年代にかけてのアメリカ文学の興隆に対して主に用いられ、「ハーレム・ルネサンス」という用語が1920年代のアメリカの文学や音楽、美術に対して主に用いられている。ペトラルカはヨーロッパの暗黒時代という考えを支持していた。同じ意味を持つ用語には"古代末期"と"中世前期"がある。
これらの非中立的な意味合いによって、ある時代がその名前ゆえに他の時代よりも良いものであるように見られることがある。しかしこれは以上の部分で概説したような問題を引き起こしうる。古代ラテンの学問の「復活」という概念は、イタリアルネサンス期の詩人にして人文主義の父ペトラルカ によって最初に生み出され、その概念はペトラルカ以後広く使われてきた。ルネサンスという用語が最も使われるのは、イタリアで起こり1500年?1530年頃に盛期を迎えた文化的変化に対して言及する場合である。当初この概念はほとんどの場合ミケランジェロやラファエロ、レオナルド・ダ・ヴィンチらが活躍した視覚芸術の分野に対して用いられた。次にそれは他の芸術に対しても用いられるようになるが、それを経済、社会、そして政治の変遷を語ることにまで延長してよいのかについては疑問が残る。今では多くの歴史学者がルネサンスや宗教改革といった歴史的出来事が西洋における近世の始まりであると言及しているが、そのように言及されるようになったのは、その出来事が起こった時代よりずっと後になってからのことである。時代の命名法の変化と一致させるために、講義で教えられる内容は漸進的に発展し、歴史書が新たに出版されてきた。それらはある程度社会史と文化史の違いを反映している。新しい時代の命名はより広大な地理的空間をカバーするように意図されており、ヨーロッパとその他の世界との繋がりに目を向けるようになってきている。
ほとんどの場合、その時代を生きる人々には自分自身が歴史家たちが後に割り振る時代のどれに属しているのかを特定することができない。この理由の一つに、彼らは将来を予期することができないので、自分が時代の最初にいるのか、中間にいるのか、それとも最後にいるのかを見分けることができないということが挙げられる。また別の理由として、自身の歴史的感覚は宗教やイデオロギーの影響を強く受けているが、宗教やイデオロギーといった類のものは時代を命名する後の歴史家たちと異なってしまう、ということもある。
中世という用語もペトラルカに由来するものである。ペトラルカは自身が生きた時代と古代、特に古代ギリシア・ローマとを比較し、古代以降の暗黒時代といえる中世が終わり、自分が生きている時代は復活の時代へ突入しつあると捉えた。中世という概念は、古代と現代という二つの長い期間の間に位置する期間であることからその時生まれ、その概念は今まで使用され続けている。