時代劇
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この量産時代の東映にあって作品を作り続けた監督には伊藤大輔マキノ雅弘松田定次[注釈 38]内田吐夢以外には田坂具隆[注釈 39]佐々木康[注釈 40]沢島忠[注釈 41]加藤泰[注釈 42]河野寿一[注釈 43]工藤栄一[注釈 44]、などがいた[53]
大映

戦争中の1942年(昭和17年)に当時の日活の製作部門と新興キネマ大都映画が合併して設立された大映は、戦後も溝口健二監督『雨月物語』『山椒大夫』を製作して、その後同じ溝口健二監督『近松物語[注釈 45]、衣笠貞之助監督『地獄門』で主演した戦前からの大スター長谷川一夫の『銭形平次捕物控』シリーズを中心にして時代劇を量産し、やがて若い市川雷蔵、勝新太郎が育って、雷蔵は『新・平家物語』から『大菩薩峠』三部作、そして『眠狂四郎』シリーズを自身の代表作とし、勝新は『座頭市』シリーズでその後長く日本映画界を牽引することとなった。東映時代劇の華やかさと優雅さに全く無縁で全く異質な『眠狂四郎』『座頭市』というダーティーなヒーローを二人が演じて独自の大映時代劇を築いていく。監督には最初の時期には黒澤明[注釈 46]、伊藤大輔[注釈 47]渡辺邦男[注釈 48]もいたが、溝口健二衣笠貞之助森一生[注釈 49]三隅研次[注釈 50]安田公義田中徳三池広一夫らがいた[54]
新東宝

戦後の東宝争議の後に設立した新東宝は、1950年3月から自主配給で大手会社となり、初期には佐伯清監督で嵐寛寿郎主演『中山安兵衛』[注釈 51]、溝口健二監督『西鶴一代女』、伊藤大輔監督『下郎の首[注釈 52]、山田達雄監督で嵐寛寿郎主演『危し 伊達六十二万石』[注釈 53]、渡辺邦男監督で美空ひばり主演『ひばり三役 競艶雪之丞変化』などの秀作があるが、後期に入って大蔵貢[55]が社長に就任すると怪談ものを作り始めて、渡辺邦男監督[注釈 54]『怨霊佐倉大騒動』、中川信夫監督『怪談累が淵』『東海道四谷怪談』などを製作し、1961年に経営不振から映画製作を中止した[56]

しかし新東宝から丹波哲郎、天知茂などがデビューして、新東宝倒産後に五社協定に拘束されずにテレビに移っていった。
日活

日活は1942年に製作部門が大映に吸収されて、戦後はずっと映画興行会社であったが1954年に製作部門を再開し、それと同時に時代劇で、鳴滝組であった滝沢英輔監督で新国劇の辰巳柳太郎主演『国定忠治』『地獄の剣豪 平手造酒』を製作し、また同じ滝沢英輔監督で島田正吾主演『六人の暗殺者』、三國連太郎主演『江戸一寸の虫』[注釈 55]を出したが、その後石原裕次郎の人気沸騰で現代劇の活劇路線を中心としたプログラムピクチャーを組み、やがて時代劇は製作しなくなった。しかし1957年(昭和32年)に当時の自社のスターを総出演させた川島雄三監督『幕末太陽伝[注釈 56]という異色時代劇を製作している[57]
松竹

文藝路線の松竹は時代劇が少なく、大船での現代劇が主で京都の撮影所では思うようには時代劇の製作は出来なかった。1951年に創立30周年記念映画でオールスターキャストの『大江戸五人男』(伊藤大輔監督)を、また1953年に八代目松本幸四郎(後の松本白鸚)の井伊大老役で大作『花の生涯』(大曾根辰夫監督)を、1954年も同じ八代目松本幸四郎が大石内蔵助を演じた『忠臣蔵花の巻・雪の巻』(大曾根辰夫監督)を、そして3年後の1957年に再び大曾根辰夫監督で『大忠臣蔵[注釈 57]を製作したりしたが、シリーズものとしては唄う映画スターと呼ばれた高田浩吉主演の『伝七捕物帳』シリーズぐらいで、松竹が抱える歌舞伎俳優を中核に新劇やフリーの俳優で脇を固め、これに近衛十四郎と高田浩吉を絡めてそこへ新人の森美樹を次代の時代劇スターに育てる予定であった。しかし1960年から61年にかけて森美樹が事故死し、高田浩吉と近衛十四郎は東映に移籍し、また歌舞伎界の八代目松本幸四郎ら多数が東宝へ移籍する事態となり、この時期から急速に松竹時代劇は衰退していった。1962年には忠臣蔵を製作しようにもキャストが組めず旧作の『大忠臣蔵』を再編集した『仮名手本忠臣蔵』とその後日談の『義士始末記』を新国劇の島田正吾を起用して製作する始末であった[58]

この他に歌舞伎座製作で松竹が配給した山本薩夫監督『赤い陣羽織[注釈 58]、木下恵介監督『笛吹川[注釈 59]、『楢山節考』、今井正監督で三國連太郎主演『夜の鼓』、小林正樹監督で仲代逹矢主演『切腹』など異色作を出しているが、やがて京都では時代劇を撮らないことを決めて、1964年に篠田正浩監督で丹波哲郎主演『暗殺』を最後に1965年に京都太秦撮影所は閉鎖された[59]
東宝

戦後に新東宝や東映との提携関係が消滅して以後、宝塚映画や東京映画製作の作品を配給していた東宝は自前の製作体制を整えることに力を注ぎ、やがて1954年に特撮で『ゴジラ』がヒットした同じ年に黒澤明監督『七人の侍』、稲垣浩監督『宮本武蔵』もヒットしたことで成果があがった[60]

その後特撮と喜劇路線の東宝にとって時代劇に黒澤明監督がいて『蜘蛛巣城』『隠し砦の三悪人』を作り、やがて『用心棒[注釈 60]椿三十郎』を製作した。この2つの映画で、東映時代劇のように様式美にこだわり、あくまでスター俳優を中心にカッコ良く決めるスタイルで、その美しさを前面に出す殺陣とは違って、黒澤明はリアルで迫力のある、そして残酷な描写を厭わない斬り合いを表現して話題となった。しかし黒澤明は1965年の『赤ひげ』を最後に東宝を去った。鳴滝組であった稲垣弘は1950年に東宝に加わり、『佐々木小次郎』三部作、そして三船敏郎主演『宮本武蔵[注釈 61]三部作を作り、後に『柳生武芸帳』『大坂城物語』そして1962年に東宝創立30周年記念映画として『忠臣蔵 花の巻 雪の巻』を撮っている。なお戦後の初期には後に東映に移ったマキノ雅弘監督が『次郎長三国志』全九部作[注釈 62]を製作している[61]
東映時代劇の衰退

1962年の正月映画で東宝『椿三十郎』が東映『東海道のつむじ風』[注釈 63]を圧倒して、東映の華麗な様式美の世界から時代劇は生々しい迫力の世界へと変わっていった[注釈 64]。そのリアルな殺陣が、東映時代劇の華やかさと所作の優雅さとが次第に観客に飽きられていき、またこの直前に「第二東映」の出現で多数の時代劇を粗製乱造したことも加えて、東映時代劇の衰退を招くこととなった[注釈 65]

これ以降東映は時代劇の不振に悩まされて、その後に集団抗争時代劇として『十七人の忍者』『十三人の刺客』『大殺陣』などを製作したが時代劇の退潮を食い止められず、やがて任侠路線に転換してヤクザ映画が主流を占め、東映の本来の時代劇は消えて、セクシー路線の時代劇へ移っていった。任侠路線転換を実施した岡田茂東映企画本部長は[62]、『日刊スポーツ』1969年1月16日付けの取材に対して「時代劇の客はテレビに吸い取られた」と断言し[52]、「お客の減ったものに大金をかけることは出来ない」と[52]、東映で正統時代劇を作らなくなった理由を明言した[52]


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