時代劇
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戦後の時代劇映画の製作会社は、松竹東宝大映東映新東宝日活宝塚映画[注釈 33](東宝の傍系会社)などである。

終戦直後に東宝が内紛と労働争議で分裂して1947年3月に新東宝ができ、しばらくは製作は新東宝、配給は東宝の形態がとられたが、やがて新東宝は東宝に配給を断られたことから自主配給に踏み切った。

その一方で戦前の1938年に設立され興行会社としてスタートした東横映画が、戦後1947年から映画製作に進出して当時大映が所有していた京都太秦の大映第二撮影所(後の東映京都撮影所)を借りて製作活動に入った。東横映画は自前の配給網を持たないので当初大映に配給する関係であったが、しかし大映の傘下では経営が成り立たないとして、大映に配給を頼る下請け会社から脱却するため、東急グループの支援を受けて自前の配給会社東京映画配給を1949年10月に作った。しかし赤字が増大し、そこで東急グループは同じ赤字の太泉映画[注釈 34]東横映画東京映画配給[注釈 35]を合併させて1951年(昭和26年)4月に東映と改称して、配給を東宝に委ねた。この当時東宝は分裂騒動の余波で自前での製作能力が無かったので、宝塚映画や東京映画の作品を配給し、そこへ東映作品も配給して、1951年頃は東映製作で東宝配給という提携関係であった[49]。しかしわずか1年で東映と東宝の提携は終了した。東宝が東映を傘下に収めようとしたことで東映が反発したとされている[50]。そして1950年の朝鮮戦争の勃発とともにGHQの方針が大きく転換して時代劇の製作が可能となり、やがて東映は自前の配給網を確保し拡大するために、二本立て興行を打ち立て、そこに東映娯楽版として中村錦之助や東千代之介をデビューさせて大人気となったことで一気に業界トップに躍り出ることになった。

それは時代劇を中心としたプログラムピクチャーによって、映画の中心が時代劇になった時代でもあった。
東映

東横映画大映との提携を解消する頃に、当時大映に所属していて永田雅一社長と衝突していた片岡千恵蔵市川右太衛門を引き抜き、やがて千恵蔵と右太衛門は東映となった後に取締役に就任した。全くスターがいなかった東横映画にとってはそれこそ観客を呼べる看板スターを持ったことになり、その後の東映においてスター中心のシステムを作るきっかけとなった。

戦後のそれまで千恵蔵は『多羅尾伴内』や『金田一耕助』などの現代劇シリーズに出演し、右太衛門は時代劇だが『お夏清十郎』『お艶殺し』などのいわゆる艶ものに出演していた。1950年に千恵蔵はいち早く従来の時代劇を復活させて渡辺邦男監督で初めて『いれずみ判官』の『桜花乱舞の巻』『落花対決の巻』を出し、翌1951年にはマキノ雅弘監督で『女賊と判官』を出した[51]。右太衛門は松田定次・萩原遼監督で『旗本退屈男』の『旗本退屈男捕物控七人の花嫁』『旗本退屈男捕物控毒殺魔殿』を出し、それぞれが後の東映のドル箱シリーズとなった。1954年に二本立て興行に移り、毎週新作二本の製作体制になり、長編と東映娯楽版と言われる中編の連続物を組み合わせて、それに日舞出身の東千代之介、歌舞伎出身の中村錦之助をデビューさせて『笛吹童子』が大ヒットし、翌年には同じ歌舞伎から大川橋蔵デビューした。

そして1956年(昭和31年)に松田定次監督『赤穂浪士』が大ヒットして、この年から業界トップに躍り出た東映は、マキノ雅弘監督が『次郎長三国志[注釈 36]『仇討崇禅寺馬場』、伊藤大輔監督が中村錦之助主演『反逆児』および『源氏九郎颯爽記 秘剣揚羽の蝶』、内田吐夢監督が片岡千恵蔵主演『血槍富士』および『大菩薩峠』三部作、そして中村錦之助主演『宮本武蔵』五部作、松田定次監督はオールスターで『忠臣蔵 櫻花の巻・菊花の巻』などが製作されて、時代劇スター中心のプログラムを組んで多数の時代劇映画を量産した。

東映は片岡千恵蔵市川右太衛門の両者を重役にして、ベテランの月形龍之介大友柳太朗、そして若手の中村錦之助(のち萬屋錦之介)、東千代之介、大川橋蔵らが育ち、きらびやかで豪快な東映時代劇を築いていく。片岡千恵蔵市川右太衛門は御大[注釈 37]と呼ばれ、千恵蔵が『いれずみ判官』(遠山の金さん)を、右太衛門が『旗本退屈男』といったそれぞれシリーズを持ち、月形龍之介は『水戸黄門』、大友柳太朗は『快傑黒頭巾』『丹下左膳』『右門捕物帖』、中村錦之助は『一心太助』『殿様弥次喜多』『宮本武蔵』、東千代之介は『鞍馬天狗』『雪之丞変化』、大川橋蔵は『若さま侍捕物手帖』『新吾十番勝負』の各シリーズを持ち、加えて正月には『忠臣蔵』や『任侠清水港』『任侠東海道』『任侠中仙道』、お盆には『旗本退屈男』(1958年)、『水戸黄門』(1960年)など歌舞伎の顔見世のようにオールスターキャストの時代劇を製作して、1950年代後半(昭和30年代前半)は東映時代劇の黄金期であった。時代劇王国を謳歌し[52]、東映城の名をほしいままにした[52]。この量産時代の東映にあって作品を作り続けた監督には伊藤大輔マキノ雅弘松田定次[注釈 38]内田吐夢以外には田坂具隆[注釈 39]佐々木康[注釈 40]沢島忠[注釈 41]加藤泰[注釈 42]河野寿一[注釈 43]工藤栄一[注釈 44]、などがいた[53]
大映

戦争中の1942年(昭和17年)に当時の日活の製作部門と新興キネマ大都映画が合併して設立された大映は、戦後も溝口健二監督『雨月物語』『山椒大夫』を製作して、その後同じ溝口健二監督『近松物語[注釈 45]、衣笠貞之助監督『地獄門』で主演した戦前からの大スター長谷川一夫の『銭形平次捕物控』シリーズを中心にして時代劇を量産し、やがて若い市川雷蔵、勝新太郎が育って、雷蔵は『新・平家物語』から『大菩薩峠』三部作、そして『眠狂四郎』シリーズを自身の代表作とし、勝新は『座頭市』シリーズでその後長く日本映画界を牽引することとなった。東映時代劇の華やかさと優雅さに全く無縁で全く異質な『眠狂四郎』『座頭市』というダーティーなヒーローを二人が演じて独自の大映時代劇を築いていく。監督には最初の時期には黒澤明[注釈 46]、伊藤大輔[注釈 47]渡辺邦男[注釈 48]もいたが、溝口健二衣笠貞之助森一生[注釈 49]三隅研次[注釈 50]安田公義田中徳三池広一夫らがいた[54]
新東宝

戦後の東宝争議の後に設立した新東宝は、1950年3月から自主配給で大手会社となり、初期には佐伯清監督で嵐寛寿郎主演『中山安兵衛』[注釈 51]、溝口健二監督『西鶴一代女』、伊藤大輔監督『下郎の首[注釈 52]、山田達雄監督で嵐寛寿郎主演『危し 伊達六十二万石』[注釈 53]、渡辺邦男監督で美空ひばり主演『ひばり三役 競艶雪之丞変化』などの秀作があるが、後期に入って大蔵貢[55]が社長に就任すると怪談ものを作り始めて、渡辺邦男監督[注釈 54]『怨霊佐倉大騒動』、中川信夫監督『怪談累が淵』『東海道四谷怪談』などを製作し、1961年に経営不振から映画製作を中止した[56]


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