時代劇
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

この他に歌舞伎座製作で松竹が配給した山本薩夫監督『赤い陣羽織[注釈 58]、木下恵介監督『笛吹川[注釈 59]、『楢山節考』、今井正監督で三國連太郎主演『夜の鼓』、小林正樹監督で仲代逹矢主演『切腹』など異色作を出しているが、やがて京都では時代劇を撮らないことを決めて、1964年に篠田正浩監督で丹波哲郎主演『暗殺』を最後に1965年に京都太秦撮影所は閉鎖された[59]
東宝

戦後に新東宝や東映との提携関係が消滅して以後、宝塚映画や東京映画製作の作品を配給していた東宝は自前の製作体制を整えることに力を注ぎ、やがて1954年に特撮で『ゴジラ』がヒットした同じ年に黒澤明監督『七人の侍』、稲垣浩監督『宮本武蔵』もヒットしたことで成果があがった[60]

その後特撮と喜劇路線の東宝にとって時代劇に黒澤明監督がいて『蜘蛛巣城』『隠し砦の三悪人』を作り、やがて『用心棒[注釈 60]椿三十郎』を製作した。この2つの映画で、東映時代劇のように様式美にこだわり、あくまでスター俳優を中心にカッコ良く決めるスタイルで、その美しさを前面に出す殺陣とは違って、黒澤明はリアルで迫力のある、そして残酷な描写を厭わない斬り合いを表現して話題となった。しかし黒澤明は1965年の『赤ひげ』を最後に東宝を去った。鳴滝組であった稲垣弘は1950年に東宝に加わり、『佐々木小次郎』三部作、そして三船敏郎主演『宮本武蔵[注釈 61]三部作を作り、後に『柳生武芸帳』『大坂城物語』そして1962年に東宝創立30周年記念映画として『忠臣蔵 花の巻 雪の巻』を撮っている。なお戦後の初期には後に東映に移ったマキノ雅弘監督が『次郎長三国志』全九部作[注釈 62]を製作している[61]
東映時代劇の衰退

1962年の正月映画で東宝『椿三十郎』が東映『東海道のつむじ風』[注釈 63]を圧倒して、東映の華麗な様式美の世界から時代劇は生々しい迫力の世界へと変わっていった[注釈 64]。そのリアルな殺陣が、東映時代劇の華やかさと所作の優雅さとが次第に観客に飽きられていき、またこの直前に「第二東映」の出現で多数の時代劇を粗製乱造したことも加えて、東映時代劇の衰退を招くこととなった[注釈 65]

これ以降東映は時代劇の不振に悩まされて、その後に集団抗争時代劇として『十七人の忍者』『十三人の刺客』『大殺陣』などを製作したが時代劇の退潮を食い止められず、やがて任侠路線に転換してヤクザ映画が主流を占め、東映の本来の時代劇は消えて、セクシー路線の時代劇へ移っていった。任侠路線転換を実施した岡田茂東映企画本部長は[62]、『日刊スポーツ』1969年1月16日付けの取材に対して「時代劇の客はテレビに吸い取られた」と断言し[52]、「お客の減ったものに大金をかけることは出来ない」と[52]、東映で正統時代劇を作らなくなった理由を明言した[52]。また「私は、時代劇は、必ず映画館にお客をこさせうる素材だと思う。但し、映画館用の時代劇は、テレビでは出来ないもの、つまり不良性感度の高いものでないとお客は呼び込めないと思う」等と話した[52]。従来、映画の時代劇のヒーローはきれいで腕が立って女にもててという男性だったが、そっくりブラウン管に取られた[52]。岡田は先を見越してこのとき、時代劇は全てテレビに移していた[63]
独立系の頑張りとテレビ局の進出

こうした風潮に対して「大型時代劇こそ日本映画復興のエネルギーだ」と意気上がったのが独立プロ三船プロダクションを主宰する三船敏郎と勝プロダクションを主宰する勝新太郎[52]、三船プロの自主作品として[52]、1960年代後半の『』以降、『上意討ち 拝領妻始末』『風林火山』と、2年ペースで時代劇映画を作り、特に1969年3月1日封切りの『風林火山』は大当たりを取った[52][64]。日本映画界にはそれまで「ヨロイものは当たらない」というジンクスがあったが[64]、それは吹き飛ばされ、映画関係者からは「洋画のアクションものに対抗出来るのは、やっぱり時代劇」などという声も飛び起こった[64][65]。勝新太郎は「"座頭市の大型化を狙う」と表明した[52]。また大手映画会社に頼らず製作した『祇園祭』も1968年11月に封切られ大ヒットした。『日刊スポーツ』1969年1月16日付けの記事で興味深いのが、フジテレビが劇場用映画第一作として『御用金』の製作を伝えていることである[52]。フジは第2作として『人斬り』も製作しヒットはしたが[65]、劇場を持たないテレビ局や独立プロは、よっぽど大当たりを取らないと儲からないと判断し、映画製作から撤退した[66][67]1980年代に入り、鹿内春雄体制になって、再び映画製作を活発化させ、日本映画の歴史を塗り替えたが[66][67]、時代劇映画はほとんど作らなかった[66]
時代劇映画の消滅

1955年(昭和30年)には当時の大手映画会社6社で年間174本の時代劇が製作され、1960年(昭和35年)で合計168本の製作本数を数えたが、わずか2年後の1962年(昭和37年)には77本に半減し、中村錦之助が東映を退社した1966年(昭和41年)の翌年には15本となり、1973年以降は年間5本程度を製作する状況となった[68]。時代劇の軸は映画界からテレビに移行、この時期からテレビ時代劇が急増する。

映画の世界では、時代劇王国と言われた東映が1964年頃から任侠路線に切り替えて1966年(昭和41年)で時代劇を打ち切り、時代劇の中心は大映に移った[64]。しかし勝新太郎との二枚看板で『眠狂四郎』シリーズをヒットさせた市川雷蔵が1969年(昭和44年)に若くして死去して、急速に精彩を失った大映も1971年(昭和46年)に倒産してしまった[69]。その後は1970年代に入って勝プロが製作した若山富三郎主演の『子連れ狼』シリーズがヒットして、松竹が高橋英樹主演で『宮本武蔵』さらにオールスターキャストで『狼よ落日を斬れ』『雲霧仁左衛門』『闇の狩人』を出し、東映が1978年(昭和53年)に12年ぶりに時代劇を復活させて『柳生一族の陰謀』が大ヒットして以後『赤穂城断絶』『真田幸村の謀略』『徳川一族の崩壊』『影の軍団服部半蔵』を出し、1980年代に入ると『魔界転生』『里見八犬伝』を角川春樹と提携して深作欣二監督で製作している[70]。しかし、その後は特に話題となるような時代劇はなく、もはや映画のジャンルとしては過去のものになりつつある。時代劇映画は50年近く長期低迷であり[71]、そして時代劇の主な舞台はすでにテレビに変わり、これ以降、テレビが時代劇を産業として支えていった[72]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:347 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef