時代劇
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^ サイレント映画ではあるが、有名な剣豪の名を語った贋者が本物の剣豪に出会ってしまい、勝負する羽目に陥ったが、そこで「偽者が本物に勝ってしまう」物語である。「権威というものはそれほど大したものではない」というメッセージが込められている。「時代劇映画の思想」30P参照。なお当時旧制中学生で後に映画監督となった市川崑がこの映画を映画館で見て、映画を志すきっかけになった映画でもある。
^ この名前は当時の六大学野球の有名選手からとったと言われている。『時代劇映画の思想』31P参照
^ 「日本映画で最も好まれたジャンルの時代劇は、大正末・昭和初期に一つの頂点を迎え、昭和10年代に様々なヴァリエーションを見せながら発展していった」『時代劇映画の思想』55P参照
^ 1935年、松竹製作。
^ 1939年、マキノ製作。片岡千恵蔵の急病から急遽製作されたものでほとんど数日で完成させたと言われている。
^ 「大江戸出世小唄」は時代劇ミュージカルの始原であり、「鴛鴦歌合戦」はその一つの頂点であった。「時代劇映画の思想」46P参照
^ 1927年に河合徳三郎が設立した河合商会が後に河合映画となり、1933年に大都映画に発展改称し、その後1942年に日活、新興キネマ(帝国キネマの後進)と合併して大映となり、大都映画は消滅した。15年間に1,294本の映画を製作した会社(1,325本製作したという資料もある)でいわゆるB級の三流映画を専門に製作した会社であった。後にプログラムピクチャーと呼ばれた週2本立てで年間100本の製作体制を取ったが、今日そのフィルムは戦災で焼失してほとんど残っていない。1937年には年間110本製作した記録が残っている。所属していた俳優は、阿部九洲夫、松山宗三郎、杉山昌三九、大乗寺八郎、そして後に戦後時代劇スターとなった近衛十四郎、また伴淳三郎も一時所属していた。『幻のB級 大都映画がゆく』65P・77Pおよび151P参照
^ 嵐寛寿郎もこの時期に二度プロダクションを興しているが、いずれも短期間に終わっている。
^ ただし、少なくとも1920年代以降の映画には血糊を使った流血の描写があることは確認されており、戦意高揚が叫ばれ始めた1938年の稲垣浩監督の作品で「晒しの上に血が滲む描写が検閲に引っかかった」と言われている。「日本映画は生きている」第2巻 「映画史を見直す」 171P 参照
^ この時期には、阪東妻三郎には『王将』、片岡千恵蔵には『多羅尾伴内』シリーズが製作された。
^ 戦前から存在した会社で戦後には東宝に作品を供給して、1968年まで続き、その間に製作した作品は177本にのぼる。嵐寛寿郎の鞍馬天狗シリーズや「右門捕物帖」シリーズも戦後の最初の時期には宝塚映画で製作されて東宝が配給していた。この時に共演した女優には宝塚歌劇の鳳八千代、寿美花代、扇千景らがいた。
^ 戦前の新興キネマ撮影所を戦後買収して貸しスタジオとして「大泉スタジオ」として設立されて、その後映画製作に乗り出したが赤字であった。後の東映東京撮影所である。
^ 後発の「東京映画配給」を存続会社として他の2社を吸収合併させる形となったため、「東映」の設立月日は「東京映画配給」の設立日の1949年10月1日となっている。
^ 1950年代に東宝で全9作、1960年代に東映で同じ監督で全4作が製作された。
^ 千恵蔵は京都太秦の高台に自宅があったので≪お山の御大≫と呼ばれ、右太衛門は同じ京都の北大路に住んでいたので≪北大路の御大≫と呼ばれた。「千恵蔵一代」154P参照
^ あらゆる意味で東映を代表する監督。戦後すぐに東横映画で片岡千恵蔵と金田一耕介シリーズと多羅尾伴内シリーズを手掛け、その後『退屈男』『左膳』『黄門』『右門』『新吾』シリーズの何作かメガホンをとり、『忠臣蔵』も3回監督している。父はマキノ省三でマキノ雅弘の異母兄にあたる。
^ 代表作は『ちいさこべ』『親鸞』『冷飯とおさんとちゃん』
^ 代表作は『修羅八荒』
^ 代表作は『一心太助天下の一大事』『暴れん坊兄弟』
^ 代表作は『瞼の母』『沓掛時次郎遊侠一匹』
^ 代表作は『白扇みだれ黒髪』
^ 代表作は『十三人の刺客』
^ この溝口監督の三作品とも撮影が宮川一夫であった。
^ 戦後すぐに起きた東宝争議で一旦東宝を離れて大映で製作したただ一作の作品。それがベネチア映画祭グランプリ受賞の『羅生門』だった。この後に東宝に復帰している。
^ 伊藤大輔は大正時代から各社でメガホンを取っていたが、大映では市川雷蔵主演『切られ与三郎』が代表作。後に東映に移る。
^ 戦前から長い期間にわたって各社でメガホンを取っている。大映では1958年に長谷川一夫主演オールスターキャストの『忠臣蔵』を作っている。
^ 雷蔵と勝新の共演『薄桜記』、勝新の『不知火検校』、雷蔵の『大菩薩峠・第三部』が代表作である。
^ 山本富士子主演『千姫御殿』、雷蔵主演『斬る』および『大菩薩峠』第一部と第二部、勝新主演『座頭市物語』が代表作である。
^ 嵐寛寿郎と花柳小菊が共演して佐藤忠男はこの映画を「戦前戦後を通じて中山安兵衛の作品のうち最高の作品である」と述べている。「嵐寛寿郎と100人のスター?女優編?」142P 荷村寛夫 著
^ 1955年製作。新東宝。伊藤大輔監督。田崎潤、嵯峨美智子主演。愚かな主人に忠義を尽くす家来の悲劇を描いている。
^ 1957年製作。新東宝。山田達雄監督。嵐寛寿郎主演。アラカンの原田甲斐が悪役で最後は大立ち回りとなる。
^ 早撮りの名人としても有名で各社を渡り歩いた監督だが、この新東宝では時代劇ではないが新東宝唯一の大ヒット作『明治天皇と日露大戦争』を作っている。
^ この両作品とも脚本は菊島隆三である。
^ 日活製作再開3周年記念映画として製作。フランキー堺主演。しかし石原裕次郎、小林旭、二谷英明など当時の日活スターが脇役で総出演してオールスターキャストである。古典落語の「居残り佐平次」「品川心中」を原案にした品川遊郭での人間模様を描いている。今ではコメディ時代劇としても評価が高い作品である。
^ 1957年製作。松竹。大石内蔵助役に歌舞伎界から二代目市川猿之助(初代市川猿翁)、大石主税に市川団子(後の三代目市川猿之助、二代目初代市川猿翁)、早野勘平に高田浩吉、他に坂東蓑助、先代松本幸四郎、市川染五郎(現松本幸四郎)など歌舞伎界と映画界のスターを集めた。脚本は井手雅人。
^ 木下順二が書いた戯曲を高岩肇が脚本化したもので、もとはスペインの作家が書いた「三角帽子」を翻案したもの。
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