時代劇
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^ 1911年(明治44年)から出版された小型の講談本で、文庫の主人公は英雄や豪傑あるいは忍者で当時の大衆文化を代表するものであり、それが松之助映画のヒーローであった。「時代劇映画の思想」15-16P
^ 尾上松之助の立ち回りは基本的に歌舞伎の型を踏襲したもので要所要所で見得を切るものであった。ただし松之助はそれにケレン味を加えて、それを生かした動きの軽快さやテンポの良さを持っていた。「日本映画は生きている」第2巻「映画史を見直す」163P 参照
^ 当時日活向島撮影所だけで東猛夫、小栗武雄、衣笠貞之助立花貞二郎木藤茂、土方勝三郎、五月操、大井吉弥といった女形がいたが、日活向島撮影所は現代劇を撮影しており、これらの女形役者は当時の旧劇(時代劇)には出演していない。しかし衣笠貞之助と同じく木藤茂も後に新興キネマで時代劇の監督となった。
^ この松竹発足時の最初に登場した女優にはこのほか、主に現代劇に出演した栗島すみ子五月信子松井千枝子筑波雪子、東栄子、英百合子沢村春子などがいた。
^ しかしこの当初の理想はすぐに崩れて、思うように国内での上映ができず、いわゆるブロックブッキングで他社製作を受けつけない興行者と妥協して低俗な内容で国内市場を確保する必要に迫られることになった。そして国内市場開拓のために設立して1年も経たずに経営合理化をして、そのためせっかく招いた新劇の小山内薫の怒りをかった。「秘録 日本の活動写真」田中純一郎著 210-211P 参照 2004年11月発行 ワイズ出版
^ 「天活」の流れを継承している会社である。
^ 松之助は愛人の芸者を女優に仕立てて相手役にしようとしたことがあったが、まだ歌舞伎の影響の強かった時代であり、映画館主の反対でとりやめている。『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
^ 時代劇の撮影所が戦前のマキノ、戦後の東映のイメージから京都が主であるのは確かではあるが、昭和に入ってからも大都映画の巣鴨、PCL(東宝)の砧、日活の調布でも時代劇の撮影が行われており、特に東宝の黒澤明は東京で時代劇を撮影しており、必ずしも京都だけで行われていたわけではない。
^ 横田永之助は、これを自分に対する反抗と見なしていた。「日本映画史」第1巻 202P 参照。また増長した松之助との不和もあるがこの頃に横田永之助とのトラブルがあったという説もある。「秘録 日本の活動写真」田中純一郎著 222-224P 参照 2004年11月発行 ワイズ出版
^ 当時アメリカ映画の活劇の手法を時代劇に取り入れて革新的な作品を次々と生み出し、この彼を境に映画は旧劇から時代劇と呼ばれる段階に入ったという説がある。「日本映画は生きている」第2巻 「映画史を見直す」166P 参照
^ 翌年には林長二郎の人気は社会現象となり、1928年(昭和3年)正月、林が挨拶のため上京すると、東京駅では一万人余りの女性ファンが詰めかけ、雪崩を打ってもみ合い黄色い声援を送った。この過熱ぶりに、「ミーハー」(女性の好きなみつまめとはやしをかけた言葉)という用語までが生まれることとなった『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)
^ サイレント映画ではあるが、有名な剣豪の名を語った贋者が本物の剣豪に出会ってしまい、勝負する羽目に陥ったが、そこで「偽者が本物に勝ってしまう」物語である。「権威というものはそれほど大したものではない」というメッセージが込められている。「時代劇映画の思想」30P参照。なお当時旧制中学生で後に映画監督となった市川崑がこの映画を映画館で見て、映画を志すきっかけになった映画でもある。
^ この名前は当時の六大学野球の有名選手からとったと言われている。『時代劇映画の思想』31P参照
^ 「日本映画で最も好まれたジャンルの時代劇は、大正末・昭和初期に一つの頂点を迎え、昭和10年代に様々なヴァリエーションを見せながら発展していった」『時代劇映画の思想』55P参照
^ 1935年、松竹製作。
^ 1939年、マキノ製作。片岡千恵蔵の急病から急遽製作されたものでほとんど数日で完成させたと言われている。
^ 「大江戸出世小唄」は時代劇ミュージカルの始原であり、「鴛鴦歌合戦」はその一つの頂点であった。「時代劇映画の思想」46P参照
^ 1927年に河合徳三郎が設立した河合商会が後に河合映画となり、1933年に大都映画に発展改称し、その後1942年に日活、新興キネマ(帝国キネマの後進)と合併して大映となり、大都映画は消滅した。15年間に1,294本の映画を製作した会社(1,325本製作したという資料もある)でいわゆるB級の三流映画を専門に製作した会社であった。後にプログラムピクチャーと呼ばれた週2本立てで年間100本の製作体制を取ったが、今日そのフィルムは戦災で焼失してほとんど残っていない。1937年には年間110本製作した記録が残っている。所属していた俳優は、阿部九洲夫、松山宗三郎、杉山昌三九、大乗寺八郎、そして後に戦後時代劇スターとなった近衛十四郎、また伴淳三郎も一時所属していた。『幻のB級 大都映画がゆく』65P・77Pおよび151P参照
^ 嵐寛寿郎もこの時期に二度プロダクションを興しているが、いずれも短期間に終わっている。
^ ただし、少なくとも1920年代以降の映画には血糊を使った流血の描写があることは確認されており、戦意高揚が叫ばれ始めた1938年の稲垣浩監督の作品で「晒しの上に血が滲む描写が検閲に引っかかった」と言われている。「日本映画は生きている」第2巻 「映画史を見直す」 171P 参照
^ この時期には、阪東妻三郎には『王将』、片岡千恵蔵には『多羅尾伴内』シリーズが製作された。
^ 戦前から存在した会社で戦後には東宝に作品を供給して、1968年まで続き、その間に製作した作品は177本にのぼる。嵐寛寿郎の鞍馬天狗シリーズや「右門捕物帖」シリーズも戦後の最初の時期には宝塚映画で製作されて東宝が配給していた。この時に共演した女優には宝塚歌劇の鳳八千代、寿美花代、扇千景らがいた。
^ 戦前の新興キネマ撮影所を戦後買収して貸しスタジオとして「大泉スタジオ」として設立されて、その後映画製作に乗り出したが赤字であった。後の東映東京撮影所である。
^ 後発の「東京映画配給」を存続会社として他の2社を吸収合併させる形となったため、「東映」の設立月日は「東京映画配給」の設立日の1949年10月1日となっている。
^ 1950年代に東宝で全9作、1960年代に東映で同じ監督で全4作が製作された。
^ 千恵蔵は京都太秦の高台に自宅があったので≪お山の御大≫と呼ばれ、右太衛門は同じ京都の北大路に住んでいたので≪北大路の御大≫と呼ばれた。「千恵蔵一代」154P参照
^ あらゆる意味で東映を代表する監督。戦後すぐに東横映画で片岡千恵蔵と金田一耕介シリーズと多羅尾伴内シリーズを手掛け、その後『退屈男』『左膳』『黄門』『右門』『新吾』シリーズの何作かメガホンをとり、『忠臣蔵』も3回監督している。父はマキノ省三でマキノ雅弘の異母兄にあたる。
^ 代表作は『ちいさこべ』『親鸞』『冷飯とおさんとちゃん』

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