時代劇
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

^ 英語圏では、自国の歴史劇を period piece または period drama と呼ばれ、日本の時代劇は「Samurai drama」と呼んで区別している。
^ 伊達騒動の原田甲斐の描き方は、歌舞伎の世界では逆臣で戦前の映画も逆臣の悪役だが、戦後の『樅の木は残った』では正反対に忠臣として主役となった。また忠臣蔵や赤穂浪士は史実としての元禄赤穂事件とは「刃傷」「討ち入り」は同じでも、それ以外のエピソードは後世の創作であり、肝心の四十七士の個人の名前さえも「徳利の別れ」の「赤垣源蔵」は実在しているのは「赤埴源蔵」の名である。
^ この活動写真は当時の歌舞伎座の裏の野天で撮影され、の歌舞伎興行で團十郎休演に際し上映され、團十郎と菊五郎が死去した翌年の1909年に歌舞伎座で公開されている。「日本映画は生きている」第2巻「映画史を見直す」182P参照
^ 1922年7月31日封切り。野村芳亭監督。伊藤大輔脚本。勝見庸太郎、川田芳子、柳さく子出演。サイレント映画。
^ これより1年後の1923年(大正12年)に同じ松竹蒲田撮影所で製作された『女と海賊』(1923年7月1日封切り。野村芳亭監督。伊藤大輔脚本。勝見庸太郎、川田芳子、柳さく子出演。サイレント映画)を最初に時代劇映画と名付けられた映画とする資料は多い(稲垣浩 著『ひげとちょんまげ』毎日新聞社 など多数)が、早稲田大学文学学術院の小松弘教授はその前年1922年(大正11年)製作の『清水の次郎長』の宣伝文句に「新時代劇」と名称がつけられていた、としている(小松弘 著「旧劇革新と歴史的意義」170P参照 これは「日本映画は生きている」第2巻「映画史を見直す」の注釈より引用)。そして最近出版された『「時代映画」の誕生』(岩本憲児 著 吉川弘文館 2016年7月発行)では、明らかに1922年(大正11年)の雑誌に載せられた「新時代劇」「純映画劇」として『清水の次郎長』の広告を写真付きで説明しており、1923年(大正12年)に製作された『女と海賊』とする説は誤りである。一方で岩本憲児は、時代劇および時代映画という言葉が広がるのは大正末期頃(1920年代半ばあたり)として、この呼称を意図的に使ったのは『女と海賊』である、としている。
^ 歌舞伎にも立ち回り、すなわち殺陣があって、さまざまな工夫が行われてきたが、その本質は写実ではなく、様式美、形式美、舞踊美である。澤田正二郎はこの剣戟を刷新して大衆の人気を得た。それには当時アメリカで大人気であったダグラス・フェアバンクスの剣戟映画「三銃士」を見て、そのスピード感と躍動感が日本の時代劇にも殺陣の革新を呼び起こしたと言われている。「時代劇伝説ーチャンバラ映画の輝き」14-15P 参照
^ 映画を発明したのはエジソンで、それをスクリーンに投射して映す方法を考案しその機械であるシネマトグラフを発明したのがフランスのリュミエール兄弟で、そのシネマトグラフを日本に持ち帰ったのが稲畑勝太郎で、その稲畑勝太郎から映画興行の事業を託されたのが横田永之助であった。
^ 京都千本座に近い大超寺の境内で、歌舞伎の「千歳曽我源氏礎」から「吉野山雪中」と「小柴入道宅」の二場を舞台そのままに撮影されたものである。「時代劇伝説ーチャンバラ映画の輝き」63P 参照
^ この映画の撮影中に松之助は倒れて死去した。
^ 1911年(明治44年)から出版された小型の講談本で、文庫の主人公は英雄や豪傑あるいは忍者で当時の大衆文化を代表するものであり、それが松之助映画のヒーローであった。「時代劇映画の思想」15-16P
^ 尾上松之助の立ち回りは基本的に歌舞伎の型を踏襲したもので要所要所で見得を切るものであった。ただし松之助はそれにケレン味を加えて、それを生かした動きの軽快さやテンポの良さを持っていた。「日本映画は生きている」第2巻「映画史を見直す」163P 参照
^ 当時日活向島撮影所だけで東猛夫、小栗武雄、衣笠貞之助立花貞二郎木藤茂、土方勝三郎、五月操、大井吉弥といった女形がいたが、日活向島撮影所は現代劇を撮影しており、これらの女形役者は当時の旧劇(時代劇)には出演していない。しかし衣笠貞之助と同じく木藤茂も後に新興キネマで時代劇の監督となった。
^ この松竹発足時の最初に登場した女優にはこのほか、主に現代劇に出演した栗島すみ子五月信子松井千枝子筑波雪子、東栄子、英百合子沢村春子などがいた。
^ しかしこの当初の理想はすぐに崩れて、思うように国内での上映ができず、いわゆるブロックブッキングで他社製作を受けつけない興行者と妥協して低俗な内容で国内市場を確保する必要に迫られることになった。そして国内市場開拓のために設立して1年も経たずに経営合理化をして、そのためせっかく招いた新劇の小山内薫の怒りをかった。「秘録 日本の活動写真」田中純一郎著 210-211P 参照 2004年11月発行 ワイズ出版
^ 「天活」の流れを継承している会社である。
^ 松之助は愛人の芸者を女優に仕立てて相手役にしようとしたことがあったが、まだ歌舞伎の影響の強かった時代であり、映画館主の反対でとりやめている。『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
^ 時代劇の撮影所が戦前のマキノ、戦後の東映のイメージから京都が主であるのは確かではあるが、昭和に入ってからも大都映画の巣鴨、PCL(東宝)の砧、日活の調布でも時代劇の撮影が行われており、特に東宝の黒澤明は東京で時代劇を撮影しており、必ずしも京都だけで行われていたわけではない。
^ 横田永之助は、これを自分に対する反抗と見なしていた。「日本映画史」第1巻 202P 参照。また増長した松之助との不和もあるがこの頃に横田永之助とのトラブルがあったという説もある。「秘録 日本の活動写真」田中純一郎著 222-224P 参照 2004年11月発行 ワイズ出版
^ 当時アメリカ映画の活劇の手法を時代劇に取り入れて革新的な作品を次々と生み出し、この彼を境に映画は旧劇から時代劇と呼ばれる段階に入ったという説がある。「日本映画は生きている」第2巻 「映画史を見直す」166P 参照
^ 翌年には林長二郎の人気は社会現象となり、1928年(昭和3年)正月、林が挨拶のため上京すると、東京駅では一万人余りの女性ファンが詰めかけ、雪崩を打ってもみ合い黄色い声援を送った。この過熱ぶりに、「ミーハー」(女性の好きなみつまめとはやしをかけた言葉)という用語までが生まれることとなった『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)
^ サイレント映画ではあるが、有名な剣豪の名を語った贋者が本物の剣豪に出会ってしまい、勝負する羽目に陥ったが、そこで「偽者が本物に勝ってしまう」物語である。「権威というものはそれほど大したものではない」というメッセージが込められている。「時代劇映画の思想」30P参照。なお当時旧制中学生で後に映画監督となった市川崑がこの映画を映画館で見て、映画を志すきっかけになった映画でもある。
^ この名前は当時の六大学野球の有名選手からとったと言われている。『時代劇映画の思想』31P参照
^ 「日本映画で最も好まれたジャンルの時代劇は、大正末・昭和初期に一つの頂点を迎え、昭和10年代に様々なヴァリエーションを見せながら発展していった」『時代劇映画の思想』55P参照
^ 1935年、松竹製作。
^ 1939年、マキノ製作。片岡千恵蔵の急病から急遽製作されたものでほとんど数日で完成させたと言われている。
次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:346 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef