昭和
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昭和初期は大正デモクラシーの成果で二大政党制政友会憲政会)の時代となり、日本政府の積極的な公共投資による経済復興を主張する立憲政友会と、財政削減と民間活力の重視による経済復興を主張する憲政会(昭和2年から立憲民政党に改称した)の二大政党が交互で内閣を組閣する議院内閣制のもと「憲政の常道」とも呼ばれる政党政治の時代であった[3]、特に日本国民の2割に当たる1200万人の男性有権者が投票した1928年(昭和3年)2月20日の男子普通選挙第16回衆議院議員総選挙)実施後、予想外の進出を示した無産政党日本共産党に対する弾圧を強め、1928年(昭和3年)に三・一五事件、翌年に四・一六事件を起こして共産党系の活動家と同調者の大量検挙を行った。その間、緊急勅令により、治安維持法を改正して最高刑を死刑とした。

一方、文化や社会科学の研究ではマルクス主義が隆盛し、1932年(昭和7年)には、野呂栄太郎らによる『日本資本主義発達史講座』が岩波書店から発行され、知識層に多大の影響を及ぼした。その執筆者は「講座派」と呼ばれたが、それに対して批判的な向坂逸郎らは雑誌『労農』により、「労農派」と呼ばれた。両派は以後、活発な論戦を繰り広げたが、国家主義的革新運動の台頭に伴い、弾圧を受け、強制的に収束していくこととなった。井上日召血盟団を組織した。後に創価学会と公明党組織の基礎となる創価教育学会が誕生した。

1929年(昭和4年)10月24日ニューヨークウォール街での株価の大暴落によって世界恐慌が引き起こされた。それは日本にも波及し、翌年、田中内閣の後を受けた濱口内閣濱口雄幸首相)が実行した金解禁を契機として昭和恐慌が引き起こされた。この恐慌は戦前の恐慌の内で最も深刻なものであった。イギリスフランスアメリカ合衆国などは植民地囲い込みによるブロック経済で建て直しを図ったが、第一次世界大戦の敗戦で天文学賠償金を負っていたドイツや、高収益な植民地を所有しない日本などは深刻な経済不況に陥った。このことはファシズムの台頭を招き、ドイツではアドルフ・ヒトラー率いるナチスを生み出す結果となり、日本では満洲は日本の生命線であると主張され、軍の中国進出を押し進めてしまう要因の一つとなった。1930年(昭和5年)、アメリカやイギリスが中心となりロンドン海軍軍縮会議が開催された。これは第一に、主力艦を1936年(昭和11年)まで延長する、第二に、補助艦の保有比率を米:英:日 = 10:10:7とするものであった。全権大使若槻禮次郎はこれを受諾したが、海軍は、統帥権を侵していると内閣に反発した(統帥権干犯問題)。
満洲事変

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出典検索?: "昭和" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2024年4月)

1931年(昭和6年)4月、若槻礼次郎首班の立憲民政党内閣(第二次若槻内閣)が成立した。7月には長春付近で朝鮮移民と中国官憲・農民との衝突事件が起きて、一触即発の情勢が生まれていた。陸軍は8月に「満洲問題解決方針の大綱」を決定していた。

同年9月18日には関東軍の謀略により柳条湖事件を契機に満洲事変が勃発した。関東軍は瀋陽、長春、公主嶺四平街などの南満洲鉄道沿線の主要都市で軍事行動を起こして、戦時体制に入った。このことが1945年(昭和20年)の敗戦までにわたる戦争の第一歩となった[4]。政府は戦争不拡大の方針を採ったが、関東軍はそれを無視する形で発展していった(塘沽協定で日中間は一旦停戦となる)。

日本の満洲国建国に前後して、国際連盟はイギリスのヴィクター・ブルワー=リットン率いるリットン調査団を派遣し、その調査結果に基づいて、1933年(昭和8年)、日本の撤退勧告案を42対1[5] で可決した。日本は2月20日の閣議で同勧告案が可決された場合の脱退を決めていたので松岡洋右代表は退場(2月24日)し、3月27日には国際連盟脱退を通告した。このことにより日本は国際的に決定的に孤立の道を歩んでいくこととなる。

また1932年(昭和7年)2月9日、第18回衆議院議員総選挙戦中に民政党の井上準之助(前蔵相)が選挙応援中に射殺され、3月5日には団琢磨(三井合名理事長)が三井銀行本店の入り口で射殺された。いわゆる血盟団事件である。続いて5月には海軍将校らが犬養毅首相を射殺した五・一五事件が起こり、犬養内閣総辞職の後、5月26日に斎藤内閣(斎藤実首相)が成立したが、帝人事件の贈収賄容疑が閣内に波及したため、1934年(昭和9年)7月3日に総辞職し、7月8日岡田内閣岡田啓介首相)が成立した。軍部急進派右翼団体を中心に、明治維新の精神の復興、天皇親政を求める「昭和維新」をスローガンとする右翼思想が唱えられ、この影響で1936年(昭和11年)には皇道派の青年将校が斎藤実内大臣や高橋蔵相らを射殺した二・二六事件が起こった。1936年(昭和11年)2月28日に岡田内閣は総辞職し、政党内閣は終焉に至った。

その後、同年3月9日に成立した広田内閣広田弘毅首相)は、二・二六事件に対する措置として大規模な粛軍を実行した一方で実質廃止となっていた軍部大臣現役武官制を復活させた。しかし、その制度は軍の協力なしでは組閣が難航する問題を内包しており、復活とともに軍部の政治介入と政治的優位が確立したため、後に議会はその役割を事実上停止する。8月7日、首相・外相・蔵相・陸相・海相の五相会議が開かれ、対外問題を中心にする重要国策(国策の基準)を決定した。内容は公表されなかったが、戦争政策の見取図・計画書であった。また、同月五相会議は「第二次北支処理要綱」を決定した。「陸軍は国防充実12か年計画[6]、海軍は第二次補充計画[7] を立てた[8]

このため1937年(昭和12年度)の予算は、陸海軍両省合計で14億円に達した。11月末の予算閣議で30億円を超える巨額の予算案が短時間で決定された。前年度に比べ8億円を一挙に増額した。この膨大な歳出を賄うため、4億2千万円の増税と8億3千万円の公債発行が行われた。この予算案が発表されると諸物価が高騰し始め、国民の生活に大きな影響を与えるものとなった[9]

同内閣は1936年(昭和11年)11月ベルリン日独防共協定を調印した。1937年(昭和12年)1月29日に閣内不統一で総辞職して、2月2日林内閣林銑十郎首相)が成立するが5月31日には総辞職となり、6月4日に第一次近衛内閣近衛文麿首相)が成立する。


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