昭和
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また1946年(昭和21年)には、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷され、戦争犯罪人とされた人は、戦争を計画し遂行した平和への罪(A級)、捕虜虐待など通例の戦争犯罪(B級)、虐殺など人道に対する罪(C級)としてそれぞれ処断された(A級B級C級とは罪の大小を表すものではなく、分類するものである)[26]

連合国の日本占領政策は、ソ連が自国領に編入した南樺太・千島列島を除き事実上のアメリカ合衆国の単独で行われたが、直接統治方式による軍政(アメリカの高等弁務官による統治)は沖縄に施行されただけで、日本本土は間接統治方式によって日本政府を通じて政策が実施された。占領を巡って、連合国内部にも意見の相違が表れ始め、スターリンは北海道の北半分のソ連占領を提案したが、トルーマンがこれを拒否した。一方、トルーマンは「共産主義」封じ込めの必要を強調する「トルーマン・ドクトリン」を発表してギリシャでの内戦に介入し、チャーチルが「鉄のカーテン」演説で予測した東西「冷戦」が本格化した。

日本では、同じ敗戦国でも東西に分割されたドイツやオーストリアウィーン)、ソ連の単独占領となったルーマニアブルガリアハンガリーチェコスロバキアなどとは異なった占領形態が採られた。1951年(昭和26年)、マッカーサーは朝鮮戦争で原爆を使用せよなどの強硬な主張を行ったことなどからトルーマンと対立して解任され、後任にマシュー・リッジウェイ中将が着任した。日本では、表面的にはソ連占領地域(南樺太、千島列島)およびアメリカ占領地域(琉球列島、小笠原諸島)を除く日本政府統治地域(北海道、本州、四国、九州、伊豆諸島およびそれらの付属島嶼)では、日本にも主権があったが、全ての法令、文書は連合軍の厳しい事前検査と許可が必要であった。第1次吉田内閣下の1946年(昭和21年)11月3日に日本国憲法が公布、翌1947年(昭和22年)5月3日に施行され、1951年(昭和26年)9月8日調印の日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)で連合国との講和が完了して翌1952年(昭和27年)4月28日に日本は主権を回復した。しかし在日米軍はほぼそのまま残留し、全土基地方式と呼ばれる方法によって日本各地に米軍基地が残された。

日本国憲法第9条は、国権の発動である戦争と武力による威嚇または武力の行使は国際紛争を解決する手段としては放棄する平和主義を定めている。そのため、日米安全保障条約自衛隊の設置が、同条に違反しないかについては、戦後古くから議論があり、また国の自衛権についても議論がある。

大戦によって国内経済は壊滅し、国民生活は混迷の極みにあったが1949年10月1日に国共内戦に勝利した中国共産党により中華人民共和国が建国されたことと朝鮮戦争の勃発により事態は一変した。朝鮮戦争には、占領軍の要請の下で官民8000名以上を国連軍の作戦に参加させ、多くの犠牲者を出した[27]。アメリカは当初、日本の完全武装解除により、非軍事化を遂行し、極東のスイスを建設すると言明していた。しかし政治反動の傾向は1947年(昭和22年)には早くも現れ始めていた。その上、1949年(昭和24年)に中華人民共和国が成立すると対日戦略を完全に転換し、日本の再武装を進め、東アジアの最重要軍事戦略拠点として位置付け、「逆コース」とも呼ばれる政策の転換が次々と生じた。戦後の変化の特徴を示すのは労働運動の盛り上がりで、国鉄読売新聞等では労働組合による自主管理も行われた。

1952年(昭和27年)1月18日に韓国が竹島の領有を主張する李承晩ラインを宣言すると、数千人に上る漁民が抑留され[28]、翌年には竹島を軍事占領された。

文化面においては日本映画が全盛時代を迎え、東映大映松竹東宝日活のメジャー5社が毎週競って新作を2本平均で上映する映画館は最大の娯楽施設となった。またラジオ放送も広範に普及し、歌謡曲やバラエティ、相撲野球の実況放送が好んで聞かれた。同時にアメリカを初めとする外国映画やジャズポピュラーも急速に流入した。一方、国語のローマ字化は断念され、1946年(昭和21年)には現代かなづかい当用漢字の制定が行われた。同年に公布された日本国憲法を初めとして、法令や公文書も現代かなづかいによって表記されることとされた。
日本社会党政権による社会主義政策

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1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙日本社会党が第1党となり片山哲総理大臣となった[29]右翼過ぎず、左翼過ぎない内閣の性格から「中道政権」と呼ばれた。GHQチャールズ・L・ケーディス民主化推進の立場からこの中道路線を支持していた[30]昭和天皇は社会主義による急進的な変革は望まなかったが、キリスト教徒である片山の人柄に好感があり、労働問題で日本社会党が支持を得た民意に一定の理解を持っていたとする宮内庁の文書の記述がある。民主党日本社会党国民協同党の連立政権である片山内閣芦田内閣が以下の経済政策[注 7] を実施した。
労働組合法を成立させて、教育委員会の公選投票制度や日本教職員組合など複数の労働組合を結成させた。定時制高校や社会科学系公立短大夜間部の設置など社会人教育の充実。

天皇の官吏から国民への奉仕者としての国家公務員法を制定させた。

内務省を解体させて、都道府県知事市町村長公選制度(直接選挙)やリコール制度を規定した。

自治体警察を創設するなど警察制度の改革を実施。

労働問題を扱う省庁として新たに労働省を設置。

職業安定法を公布させた。

社会保険制度として、失業保険法と失業手当法を成立させて失業保険を創設した。

国民健康保険法を改正した。

児童福祉法を公布させた[31]学校給食制度を創設した。

戸主制度・家督相続など封建的な家族制度の廃止や婚姻の自由、男女平等の相続の創設を目標とした改正民法の制定。

夫婦平等の概念と夫婦共同財産制度の創設、妻の能力権と配偶者として相続する権利、子供全員が均等に相続する制度が新設されて、富裕層の相続税が増税されるなどの相続法改正[32]


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