昭和
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日米交渉は進展せず、昭和15年1月には日米通商航海条約は失効した[13]。1月の第75回帝国議会で276人の衆議院議員が阿部内閣の退陣を決議。軍部は反軍的気運の生まれることを恐れて政府不支持の態度をとったので昭和15年1月4日に阿部内閣は退陣した。

続く内閣に、海軍大将米内光政を首班とする米内内閣1月16日に成立した。この内閣には、民政党・政友党から2名ずつ、財界からは藤原銀次郎商相として入閣した。

昭和15年11月10日から11月14日に、同年が初代神武天皇が即位して2600年にあたるとして「紀元二千六百年式典」が全国で実施される。
第二次世界大戦

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ヨーロッパでは1939年(昭和14年)8月23日に突如、独ソ不可侵条約が発表された。9月1日にナチス・ドイツがポーランドに侵入して、9月3日にイギリス、フランスがドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が開始された。阿部内閣は「欧州戦争に介入せず」と声明した。1940年(昭和15年)、フランスがナチス・ドイツに降伏しドイツ、イタリアの勢力が拡大するに及んで日独伊三国同盟を締結した。大西洋憲章を制定したアメリカ、イギリスの連合国に対して、日本、ドイツ及びイタリアは枢軸国と呼称されるようになった。また、ソ連との間に日ソ中立条約が締結されて、満洲国モンゴル人民共和国の尊重と相互不可侵が約束された。

日中戦争勃発後、陸軍は公然と倒閣運動に乗り出して、畑俊六陸相は国防国家建設のため人心一新を求め単独辞職し、後任の陸相が決まらず1940年(昭和15年)7月16日米内内閣は総辞職した。
太平洋戦争前夜

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次期内閣には近衛文麿第2次近衛内閣として組閣、1940年(昭和15年)7月22日に成立した。近衛を中心とする新体制運動が進められ、同年10月には、大政翼賛会が結成されて、既成政党は解党した。この翼賛会は、経済新体制を創出する統制会・大日本産業報国会と並んで政治面で日中戦争および太平洋戦争大東亜戦争)の遂行を支え、「高度国防国家体制」の創設を目指す大政翼賛運動の推進に当たった。組織原則では、衆議は尽くすが最終的な決定は総裁が下すと言う「衆議統裁」形式が採られた。これは国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)とナチス・ドイツの組織原則を真似たものであると言われ、一党独裁のである、かつての武家政権・幕府の様に皇室を置物にするものであるという強い批判も出て、精神運動を中心に据えるように変わっていった。歴代総裁には近衛文麿東條英機小磯國昭鈴木貫太郎が就任し、最初は総裁の指名によって事務総長に近衛側近の有馬頼寧が任命され、中央本部に総務・組織・政策・企画・議会の五局および23部が設置された。地方にもこの支部が設けられ、支部長の多くは知事・市町村長が任命され、中央・地方に協力会議が設置された。しかしその部内では主導権争いが頻発し、また、1941年(昭和16年)には平沼騏一郎内務大臣により公事結社とされて政治活動は禁止されて、有馬らの近衛グループが退陣して、内務省および警察主導の行政補助機関となっていった。

1940年(昭和15年)1月にアメリカ合衆国政府は通商条約の破棄など強硬な方策を採った。日本は、ナチス・ドイツや率いるイタリアと1940年(昭和15年)9月に日独伊三国軍事同盟を締結することで対処しようとしたが、アメリカ政府の反発を招くだけだった。その上、南部仏印進駐によってアメリカ政府から石油禁輸を招くに至った。アメリカ・イギリス・中国・オランダとの関係がいっそう冷え込み、日本ではそれぞれの国の英語の頭文字をとってABCD包囲網と呼ぶ。

一方、日本では陸軍を中心として対ソ連戦争を目指す北進論と南方に進出することを目標とする南進論との二派があったが、国境線が紛争となっていた張鼓峰とノモンハンでソ連軍と衝突した。これによって北方進出を断念し、日ソ中立条約を締結し北の防衛を強固にするなど対米戦争を準備する一方、外務省は1941年(昭和16年)晩秋まで日米交渉を続け、同年10月18日には第3次近衛内閣が総辞職し、東条内閣東条英機首相)が成立する。

しかし、軍の強硬姿勢に押される形で交渉は難航し、当時ナチス・ドイツに対し完全な劣勢であったイギリスや中国によるアメリカの参戦の要望、および日本海軍の動きにフランクリン・ルーズベルトアメリカ合衆国大統領が激怒したことによりコーデル・ハル国務長官より中国大陸から撤退すべしとの交渉案(通称ハル・ノート、実際の草稿者はハリー・ホワイト財務次官補)を受ける。これを日清戦争日露戦争以降に獲得した全植民地からの撤退要求と解釈した日本政府は、事実上の米国政府による最後通牒と認識し、対英米蘭開戦が決定された。日本はこうして第二次世界大戦へ参戦することとなった。アメリカ、イギリスは大西洋憲章を制定し、自陣営を連合国と称し、日本、ドイツ、イタリアの枢軸国と対抗した。
太平洋戦争「太平洋戦争」および「大東亜戦争」も参照1941年(昭和16年)12月8日大日本帝国海軍ハワイ真珠湾を奇襲攻撃し、アメリカ太平洋艦隊に大損害を与えた。アメリカは、「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」を唱えて日本との戦争に突入した。写真は攻撃を受けて炎上するアメリカ戦艦。

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1941年(昭和16年)12月8日(現地時間12月7日)、ハワイ時間午前6時30分に航行制限区域に侵入した特殊潜航艇が撃沈される「ワード号事件」、日本のイギリス領マレー侵攻の後、大日本帝国海軍真珠湾攻撃を行った。


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