昭和
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日本の満洲国建国に前後して、国際連盟はイギリスのヴィクター・ブルワー=リットン率いるリットン調査団を派遣し、その調査結果に基づいて、1933年(昭和8年)、日本の撤退勧告案を42対1[5] で可決した。日本は2月20日の閣議で同勧告案が可決された場合の脱退を決めていたので松岡洋右代表は退場(2月24日)し、3月27日には国際連盟脱退を通告した。このことにより日本は国際的に決定的に孤立の道を歩んでいくこととなる。

また1932年(昭和7年)2月9日、第18回衆議院議員総選挙戦中に民政党の井上準之助(前蔵相)が選挙応援中に射殺され、3月5日には団琢磨(三井合名理事長)が三井銀行本店の入り口で射殺された。いわゆる血盟団事件である。続いて5月には海軍将校らが犬養毅首相を射殺した五・一五事件が起こり、犬養内閣総辞職の後、5月26日に斎藤内閣(斎藤実首相)が成立したが、帝人事件の贈収賄容疑が閣内に波及したため、1934年(昭和9年)7月3日に総辞職し、7月8日岡田内閣岡田啓介首相)が成立した。軍部急進派右翼団体を中心に、明治維新の精神の復興、天皇親政を求める「昭和維新」をスローガンとする右翼思想が唱えられ、この影響で1936年(昭和11年)には皇道派の青年将校が斎藤実内大臣や高橋蔵相らを射殺した二・二六事件が起こった。1936年(昭和11年)2月28日に岡田内閣は総辞職し、政党内閣は終焉に至った。

その後、同年3月9日に成立した広田内閣広田弘毅首相)は、二・二六事件に対する措置として大規模な粛軍を実行した一方で実質廃止となっていた軍部大臣現役武官制を復活させた。しかし、その制度は軍の協力なしでは組閣が難航する問題を内包しており、復活とともに軍部の政治介入と政治的優位が確立したため、後に議会はその役割を事実上停止する。8月7日、首相・外相・蔵相・陸相・海相の五相会議が開かれ、対外問題を中心にする重要国策(国策の基準)を決定した。内容は公表されなかったが、戦争政策の見取図・計画書であった。また、同月五相会議は「第二次北支処理要綱」を決定した。「陸軍は国防充実12か年計画[6]、海軍は第二次補充計画[7] を立てた[8]

このため1937年(昭和12年度)の予算は、陸海軍両省合計で14億円に達した。11月末の予算閣議で30億円を超える巨額の予算案が短時間で決定された。前年度に比べ8億円を一挙に増額した。この膨大な歳出を賄うため、4億2千万円の増税と8億3千万円の公債発行が行われた。この予算案が発表されると諸物価が高騰し始め、国民の生活に大きな影響を与えるものとなった[9]

同内閣は1936年(昭和11年)11月ベルリン日独防共協定を調印した。1937年(昭和12年)1月29日に閣内不統一で総辞職して、2月2日林内閣林銑十郎首相)が成立するが5月31日には総辞職となり、6月4日に第一次近衛内閣近衛文麿首相)が成立する。中国では西安事件で拉致された?介石周恩来の間で国共合作が成立して、抗日闘争が進められた(第二次国共合作)。
日中戦争

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昭和12年に中国北平市盧溝橋で日中両軍が衝突し、停戦協定後も通州事件第二次上海事変などが続き、日中戦争支那事変)が始まった。戦線の拡大に従って思想統制と国民生活向上を図って戦時体制への協力を国民に求めるという「広義国防」論に代わって、国民・国力の全てを戦争遂行のために投入して総力戦を行おうとする総動員政策が台頭し、その結果国家総動員法が成立した。国内の文化・思想に関しては、戦時体制が強化されるに伴って治安維持法による思想弾圧が目立ち、昭和12年には加藤勘十鈴木茂三郎らの労農派の関係者が人民戦線の結成を企図したとして検挙される人民戦線事件が起こった。

近衛内閣の後を受けて昭和14年1月5日平沼内閣が誕生する。平沼は内務・司法官僚の大御所で、枢密院議長でもあった。2月には軍部は海南島を占領し、3月にはフィリピン西方海上の無人諸島の領有を宣言して新南群島と名付けた。この軍事行動はイギリス・アメリカを大きく刺激した。また6月には天津の英仏租界を封鎖した(天津事件)という。東京では、有田八郎外相とロバート・クレイギー英大使との会談が開かれた。7月になるとアメリカ政府日米通商航海条約の破棄を通告したのでイギリス政府の対応も変わり日英会談は決裂した[10]。満洲では日本とソ連は昭和14年5月12日ノモンハン事件などで衝突した。8月には第23師団を中軸とする第6軍を新編成して、満洲から集められるだけの飛行機と戦車を投入したが、一万数千人の死者が出た。第23師団は全滅に近い壊滅状態であった。機械化装備や火力、輸送力に格段の差を見せつけられての敗北であった。この事件後、陸軍当局は「精神力と並んで物力も顧慮しなければならぬ」と異例の談話を発表した。9月16日にノモンハン事件の停戦協定が結ばれた[11]

ヨーロッパ情勢は目まぐるしく変転し8月には独ソ不可侵条約が締結された。三国同盟問題を解決できなかった平沼内閣は昭和14年8月28日に総辞職した。「今回締結せられた独ソ不可侵条約に依り、欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じたので我が方はこれに鑑み、従来準備し来った政策はこれを打ち切り、更に別途の政策樹立を必要とするに至った」とその理由を説明している。この説明は、日本の支配層が国際情勢に順応しきれず外交政策を立てることができなくなっていたことを吐露したものと考えられる[12]

同年8月30日阿部内閣が誕生、この後すぐに第二次世界大戦が始まった。内閣は9月4日に「今次欧州戦争勃発に際しては帝国はこれに介入せず、もっぱら支那事変の解決に邁進せんとす」との声明を出した。ドイツとソ連ではイデオロギーが相容れず手を結ぶことはないと考えていた日本は、外交方針の見直しに迫られた。11月4日からは外相野村吉三郎はアメリカ大使ジョセフ・グルーと会談を始めた。また、決裂状態にあった日英会談再開の気運が生まれた。

日米交渉は進展せず、昭和15年1月には日米通商航海条約は失効した[13]。1月の第75回帝国議会で276人の衆議院議員が阿部内閣の退陣を決議。軍部は反軍的気運の生まれることを恐れて政府不支持の態度をとったので昭和15年1月4日に阿部内閣は退陣した。

続く内閣に、海軍大将米内光政を首班とする米内内閣1月16日に成立した。この内閣には、民政党・政友党から2名ずつ、財界からは藤原銀次郎商相として入閣した。

昭和15年11月10日から11月14日に、同年が初代神武天皇が即位して2600年にあたるとして「紀元二千六百年式典」が全国で実施される。
第二次世界大戦

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