後を受けた田中義一内閣(田中義一首相)は高橋是清蔵相の下で、3週間のモラトリアム(支払い猶予令)を発して全国の銀行の一斉休業と日本銀行から9億円もの緊急貸し出しによって急場をしのいだ。また、台湾銀行の救済策も出された。この後、銀行の整理統合が進み、五大銀行(三井銀行・三菱銀行・住友銀行・安田銀行・第一銀行)へ預金が集中した。
一方、中国(中華民国)では1925年(大正14年)に死去した孫文の後を?介石が継ぎ、1926年(大正15年)7月に中国国民党の国民革命軍は?介石を総司令として北伐を開始し、10月には武漢を占領し、ここに国民政府を移して、翌年の1927年(昭和2年)3月には上海を占領、ついで南京も手中に収めた[2]。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
田中内閣と山東出兵
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田中内閣は、張作霖を動かして満蒙での諸懸案の解決を図ろうとして3回[注 6]に及ぶ山東出兵を行い、東京で外交・軍部関係者を集めて東方会議を開き、満蒙の利権を死守することを確認した。これに基づいて政府は張作霖と交渉し、満洲の権益の拡大を図ったが、張は応じず、関東軍は張の乗る列車を1928年(昭和3年)6月4日に爆破して暗殺した(満洲某重大事件)。関東軍は当初この事件を国民革命軍軍の仕業だと公表したが、実際は関東軍参謀河本大作の仕業であった。このため国内の野党から「満洲某重大事件」として追及され、田中首相は上奏しようとしたが、昭和天皇から説明を聞きたくないと不快感を表明され、田中内閣はこのため1929年(昭和4年)7月2日に総辞職した。世上では首相の名前(義一)を下から読んで、「一つもよしことなかった」と揶揄された。
田中内閣は、第二次護憲運動で誕生した護憲三派の内閣である加藤内閣(加藤高明首相)とりわけ、外相である幣原喜重郎が行った外交政策である中国内政不干渉政策(幣原外交)を「軟弱外交」として批判して登場した。そのため、田中は自ら外相を兼任し中国での革命の進展に対して強く干渉した。
ところが、中国での武力行使に対する列国の批判を交わすためもあって1928年(昭和3年)、フランスのパリで締結されたいわゆるパリ不戦条約には調印した。ただ、この不戦条約は第1条で「人民ノ名ニ於テ」戦争を放棄することを謳っており、「国体をないがしろにするもの」とする批判が国内に生じた。このため、新聞紙上でも侃々諤々の論議が行われた末、翌年に至り、「其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ」という文言を日本については適用外とする宣言を付して批准された。また、田中内閣は国内で思想取締強化を図ったことでも知られている。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
普通選挙
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昭和初期は大正デモクラシーの成果で二大政党制(政友会・憲政会)の時代となり、日本政府の積極的な公共投資による経済復興を主張する立憲政友会と、財政削減と民間活力の重視による経済復興を主張する憲政会(昭和2年から立憲民政党に改称した)の二大政党が交互で内閣を組閣する議院内閣制のもと「憲政の常道」とも呼ばれる政党政治の時代であった[3]、特に日本国民の2割に当たる1200万人の男性有権者が投票した1928年(昭和3年)2月20日の男子普通選挙(第16回衆議院議員総選挙)実施後、予想外の進出を示した無産政党や日本共産党に対する弾圧を強め、1928年(昭和3年)に三・一五事件、翌年に四・一六事件を起こして共産党系の活動家と同調者の大量検挙を行った。その間、緊急勅令により、治安維持法を改正して最高刑を死刑とした。