昭和恐慌
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日本の輸出先は、生糸についてはアメリカ、綿製品や雑貨については中国をはじめとするアジア諸国であったが、これらの国々はとりわけ世界恐慌のダメージの強い地域であった[13]。こういったことから、1930年(昭和5年)3月には商品市場が大暴落し、生糸、鉄鋼農産物等の物価は急激に低下した。次いで株式市場の暴落が起こり、金融界を直撃した[13]。さらに、物価と株価の下落によって中小企業倒産や操業短縮が相次ぎ、失業者が街にあふれ、国民一般の購買力も減少していった[13]。1930年(昭和5年)中につぶれた会社は823社におよび、減資した会社は311社、解散減資の総額は5億8,200万円におよんでいる[13]労働運動も激化した。また、全体の3割にあたる約3万の小売商夜逃げしている[14]。当時、稀少であったはずの大学専門学校卒業生のうち約3分の1が職がない状態であり、学士が職にありつけない明治以来の異変が生じて「大学は出たけれど」が流行語となった[14]。1930年(昭和5年)の失業者は全国で250万人余と推定されており、このような未曽有の不況は「ルンペン時代」と称された[3]

1929年(昭和4年)を100としたときの1930年(昭和5年)・1931年(昭和6年)の経済諸指標は以下の通りである[3]

項目1929年
昭和4年1930年
昭和5年1931年
昭和6年
国民所得1008177
卸売物価1008370
米価1006363
綿糸価格1006656
生糸価格1006645
輸出額1006853
輸入額1007060

なお、1930年(昭和5年)時点での日本の1人あたり国民所得 (GNI) は、アメリカの約9分の1、イギリスの約8分の1、フランスの約5分の1、ベルギーの約2分の1にすぎなかった[14]
農業恐慌詳細は「昭和農業恐慌」を参照

昭和恐慌で、とりわけ大きな打撃を受けたのは農村であった。生糸の対米輸出が激減したことに加え、デフレ政策と1930年(昭和5年)の豊作による米価下落、朝鮮台湾からのの流入によって米過剰が増大し[15]、農村は壊滅的な打撃を受けた。
日本政府の対策「ライオン首相」といわれた濱口雄幸

濱口内閣は、農業恐慌に対しては、農民への低利資金の融通や米、生糸の市価維持対策をとったが、緊縮財政の枠のなかではまったく不十分にしか行えなかった。いっぽう工業面では、1930年(昭和5年)6月に臨時産業合理局を設けている[3][注釈 6]

濱口内閣は、対外的には協調外交を進め、1930年(昭和5年)4月にロンドン海軍軍縮条約を調印した。しかし、同年11月、これを統帥権干犯であるとして反発する愛国社佐郷屋留雄によって東京駅で狙撃された。濱口は一命を取りとめたが、1931年(昭和6年)4月、内閣不一致で総辞職した。政府は同じ4月に工業組合法、重要産業統制法を制定して、輸出中小企業を中心とした合理化やカルテルの結成を促進した[3]。重要産業統制法は、指定産業での不況カルテルの結成を容認するものであったが、これが統制経済の先がけとなった[注釈 7]

濱口の後継としては同じ立憲民政党の若槻禮次郎を首班とする第2次若槻内閣が成立したが、31年(昭和6年)9月、関東軍によって満洲事変が勃発した。また、同じ9月にはイギリスが金本位制から離脱したことにより、大量の売り・ドル買いを誘発した。ドル買いを進めた財閥に対しては、「国賊」「非国民」として攻撃する声が国民のあいだに高まった[注釈 8]

満洲事変に対しては、若槻首相は事変不拡大を声明したが、関東軍はそれを無視して戦線を拡大した。こうして若槻内閣は、恐慌に対し有効な対策を講じることができないまま、事変後の事態の収拾にゆきづまって総辞職した。1931年(昭和6年)12月、立憲政友会犬養毅内閣を組織した。犬養内閣の蔵相高橋是清

犬養内閣高橋是清蔵相は、31年(昭和6年)12月、ただちに金輸出を再禁止し、日本は管理通貨制度へと移行した。高橋蔵相は民政党政権が行ってきたデフレ政策を180度転換し、積極財政を採り、軍事費拡張と赤字国債発行によるインフレーション政策を行った(これをきっかけとした軍拡政策は、景況改善後も、資源配分転換と国際協調を企図した軍縮の試みにもかかわらず継続される。


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