昭和恐慌
[Wikipedia|▼Menu]
金本位制復帰後の当時の新聞記事の見出しでは「金融平穏無事」(大阪時事新報 昭和5年(1930年)1月12日)、「金解禁後の財界は至極良好」(大阪朝日新聞 昭和5年(1930年)1月22日)と礼賛されたが、一カ月後には「金解禁で産業界は高率操短[6]時代」(中外商業新報 昭和5年(1930年)2月17-19日)、「一般物価に比し米価は甚だしく下落」(大阪朝日新聞 昭和5年(1930年)2月20日)といった新聞記事の見出しが出始めた[7]

昭和恐慌当時の代表的なメディアである新聞・総合雑誌からは「不景気を徹底させよ」と勇ましいスローガンが飛び出していた[8]
昭和恐慌の発生
世界恐慌と金解禁1929年(昭和4年)10月のウォール街大暴落で混乱する米国ニューヨーク

緊縮財政と金融引き締め策によって約3億円の正貨が準備され、為替も急速に回復したため、日本政府は1929年(昭和4年)11月22日、翌年の1月11日をもって金解禁に踏み切る大蔵省令を公布した[9]。しかし、直前の10月24日にアメリカ合衆国ニューヨークウォール街で起こった株価の大暴落、所謂“暗黒の木曜日”に端を発した恐慌が世界中に波及した(世界恐慌)。日本経済は、これにより金解禁による不況とあわせ、二重の打撃を受けることとなった。

金解禁前の為替相場の実勢は100円=46.5ドル前後の円安であったが、井上蔵相は、100円=49.85ドルという金禁輸前の旧平価での解禁をおこなったため、実質的にはの切り上げとなった。円高をもたらして日本の輸出商品をあえて割高にし、ひいては日本経済をデフレーションと不況にみちびくおそれのある旧平価解禁を実施したのは、円の国際信用を落としたくない思いに加えて、生産性の低い不良企業を淘汰することによって日本経済の体質改善をはかる必要があるとの判断されたためであった[9][注釈 3]。金融界にあっても、金融恐慌後の資金の集中によって体質強化がはかられていたので、デフレを乗りきる自信が備わっていた[10]。為替の不安定に悩まされていた商社もまた金解禁に賛成し、海外からも金解禁を迫られてはいた[10]

しかし、ある意味で、1930年(昭和5年)1月は、金解禁の時期としては最も悪いタイミングであった[11]。政府が金解禁を急いだのは、1929年(昭和4年)までのアメリカの繁栄をみたためであったが、ウォール街大暴落がやがて起こる世界大恐慌の前ぶれであることを予見した世界の指導者は誰ひとりいなかったのであり、井上蔵相もまた、再びアメリカ経済が活況を呈するだろうと考えたのである[11]。ところが、よりによって日本の金解禁は世界恐慌の幕が切って落とされたその時に実行に移されたのだった[注釈 4]。金解禁を見越して輸出代金回収を早め、輸入代金支払いを繰り延べる「リーズ・アンド・ラグズ」によって国際収支の好調と為替相場の上昇が一時みられたものの、解禁後は一転して逆調となった[3]
正貨流出と昭和恐慌の発生

低コストによって輸出を拡大させようとした井上蔵相のねらいとは裏腹に、対外輸出は激減した。そのいっぽうで日本国内で兌換された正貨は海外に大量に流出した[12]。金解禁後わずか2か月で約1億5,000万円もの正貨が流出、1930年(昭和5年)を通して2億8,800万円におよんだ[12]。正貨流出は1931年(昭和6年)になってもおさまらず、むしろ激しさを増した[注釈 5]

日本の輸出先は、生糸についてはアメリカ、綿製品や雑貨については中国をはじめとするアジア諸国であったが、これらの国々はとりわけ世界恐慌のダメージの強い地域であった[13]。こういったことから、1930年(昭和5年)3月には商品市場が大暴落し、生糸、鉄鋼農産物等の物価は急激に低下した。次いで株式市場の暴落が起こり、金融界を直撃した[13]。さらに、物価と株価の下落によって中小企業倒産や操業短縮が相次ぎ、失業者が街にあふれ、国民一般の購買力も減少していった[13]。1930年(昭和5年)中につぶれた会社は823社におよび、減資した会社は311社、解散減資の総額は5億8,200万円におよんでいる[13]労働運動も激化した。また、全体の3割にあたる約3万の小売商夜逃げしている[14]。当時、稀少であったはずの大学専門学校卒業生のうち約3分の1が職がない状態であり、学士が職にありつけない明治以来の異変が生じて「大学は出たけれど」が流行語となった[14]。1930年(昭和5年)の失業者は全国で250万人余と推定されており、このような未曽有の不況は「ルンペン時代」と称された[3]

1929年(昭和4年)を100としたときの1930年(昭和5年)・1931年(昭和6年)の経済諸指標は以下の通りである[3]

項目1929年
昭和4年1930年
昭和5年1931年
昭和6年
国民所得1008177
卸売物価1008370
米価1006363
綿糸価格1006656
生糸価格1006645
輸出額1006853
輸入額1007060

なお、1930年(昭和5年)時点での日本の1人あたり国民所得 (GNI) は、アメリカの約9分の1、イギリスの約8分の1、フランスの約5分の1、ベルギーの約2分の1にすぎなかった[14]
農業恐慌詳細は「昭和農業恐慌」を参照

昭和恐慌で、とりわけ大きな打撃を受けたのは農村であった。生糸の対米輸出が激減したことに加え、デフレ政策と1930年(昭和5年)の豊作による米価下落、朝鮮台湾からのの流入によって米過剰が増大し[15]、農村は壊滅的な打撃を受けた。
日本政府の対策「ライオン首相」といわれた濱口雄幸

濱口内閣は、農業恐慌に対しては、農民への低利資金の融通や米、生糸の市価維持対策をとったが、緊縮財政の枠のなかではまったく不十分にしか行えなかった。いっぽう工業面では、1930年(昭和5年)6月に臨時産業合理局を設けている[3][注釈 6]

濱口内閣は、対外的には協調外交を進め、1930年(昭和5年)4月にロンドン海軍軍縮条約を調印した。しかし、同年11月、これを統帥権干犯であるとして反発する愛国社佐郷屋留雄によって東京駅で狙撃された。濱口は一命を取りとめたが、1931年(昭和6年)4月、内閣不一致で総辞職した。政府は同じ4月に工業組合法、重要産業統制法を制定して、輸出中小企業を中心とした合理化やカルテルの結成を促進した[3]。重要産業統制法は、指定産業での不況カルテルの結成を容認するものであったが、これが統制経済の先がけとなった[注釈 7]

濱口の後継としては同じ立憲民政党の若槻禮次郎を首班とする第2次若槻内閣が成立したが、31年(昭和6年)9月、関東軍によって満洲事変が勃発した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:47 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef