昭和天皇
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1月31日[1]追号勅定
諱裕仁(ひろひと)
1901年(明治34年)5月5日命名
別称昭和帝(しょうわてい)
称号迪宮(みちのみや)
印若竹(わかたけ)
元服1919年(大正8年)5月7日
父親大正天皇
母親貞明皇后
皇后香淳皇后(良子女王)
1924年(大正13年)1月26日
結婚
子女一覧参照

東久邇成子(成子内親王→盛厚王妃成子内親王)
祐子内親王
鷹司和子(和子内親王)
池田厚子(厚子内親王)
明仁(明仁親王 → 第125代天皇 → 上皇)
常陸宮正仁親王(正仁親王)
島津貴子(貴子内親王)

皇嗣

秩父宮雍仁親王[注釈 1]
皇太子明仁親王[注釈 2]
皇居宮城・皇居
栄典大勲位
学歴東宮御学問所修了
副業生物学者
親署
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昭和天皇(しょうわてんのう、1901年明治34年〉4月29日 - 1989年昭和64年〉1月7日)は、日本の第124代天皇[注釈 3](在位: 1926年大正15年/昭和元年〉12月25日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)。は裕仁(ひろひと)、御称号は迪宮(みちのみや)[2]お印若竹(わかたけ)。

1921年(大正10年)11月25日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの5年余りにわたって、父帝・大正天皇の健康状態の悪化により、摂政となり、自身の天皇即位まで務めた。現在、日本で最後に摂政に就任した人物である。60年余りの在位中に第二次世界大戦を挟み、大日本帝国憲法下の「統治権の総攬者」としての天皇と日本国憲法下の「象徴天皇」の両方を経験した唯一の天皇である[3]。大日本帝国憲法下においては最高司令官として大本営で実戦の指揮も執った。
人物

1901年(明治34年)4月29日皇太子嘉仁親王(当時、のちの大正天皇)と同妃節子(当時、のちの貞明皇后)の第1男子として誕生する。弟に、秩父宮雍仁親王(淳宮雍仁親王)、高松宮宣仁親王(光宮宣仁親王)、三笠宮崇仁親王(澄宮崇仁親王)の3人がいる。少年期は学習院初等科(院長:乃木希典)に通学し、卒業後は東宮御学問所(総裁:東郷平八郎)で教育を受けた。

1916年(大正5年)に立太子。日本の皇太子として初めてイギリス王国フランス共和国ベルギー王国イタリア王国などをお召艦で訪問した(皇太子裕仁親王の欧州訪問)。帰国後、父大正天皇の病気により摂政に就任(直近最後の摂政)。この他、外地にも行啓した(台湾行啓)。

1926年(大正15年/昭和元年)12月25日、大正天皇の崩御に伴い皇位継承、第124代天皇として践祚する。

大日本帝国憲法下において「國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬(第4条)」と規定された立憲君主たる地位にあった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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