春光グループ
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春光グループ
Shunko Group創業者久原房之助、鮎川義介
国籍
日本
中核企業日立製作所
日産自動車
ENEOSホールディングス
SOMPOホールディングス
日産化学
ニッスイ
ニチレイ
日油
三菱HCキャピタル
日立造船
日立建機
JX金属
ロジスティード
会員数118社
前身日産コンツェルン(鮎川財閥)
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春光グループ(しゅんこうグループ、: Shunko Group)は、日本企業グループ久原財閥日産コンツェルン(鮎川財閥)を前身とする。

本部事務局は丸の内センタービル内の日立製作所本社に置く[1]
概要

春光グループは、旧日産コンツェルンの流れを汲む企業で構成される「春光会」「春光懇話会」の会員企業、その関連企業で構成されるグループである。春光グループを統括する持株会社やグループ内の強力な資本関係があるわけではなく、独立会社の集合体である[1]

他の企業グループとは、特に三菱グループとの関係が深く、日産自動車三菱自動車の資本業務提携や、ENEOSホールディングス三菱HCキャピタルは設立経緯から、三菱グループの機関である「三菱金曜会」「三菱広報委員会」の会員でもあるなど、他の企業グループとの関係と比べて密接な関係を持つ。これは、春光・三菱両グループが第二次産業、特に重化学の加工業分野に強く提携しやすいことや、三井住友との三大財閥同士の提携は障壁が大きいことなどがあるとされる[2][3][4]

春光グループは、財閥解体から再結集を果たした三菱三井住友グループなどの財閥系グループと同じ経緯をたどっているが、グループ内の結束は比較的弱いとされる。例として、代表的な事例には以下の事例がある。

三菱グループは三菱自動車リコール隠し問題などの「スリーダイヤ」が揺らぐ事態には、三菱重工業三菱UFJ銀行三菱商事の「御三家」と呼ばれるグループの中核企業が積極的な支援を行った[5]。一方、春光グループでは、1997年日産生命保険が経営破綻した際、金融当局が春光グループに資金拠出を要請したが、グループの中核企業である日立製作所、日産自動車はこれを拒否した[4]

他の財閥系グループと異なり、グループ内企業のメインバンクはばらけている。これは戦前から財閥・グループ内に財閥・グループ系の銀行を有していないからであり、各企業はそれぞれの経営判断でメインバンクを選択、融資系列に入っている。そのため、富士銀行(現:みずほ銀行)の融資系列グループである「芙蓉会」、三和銀行(現:三菱UFJ銀行)の融資系列グループ(三和グループ)である「三水会」・「みどり会」、第一勧業銀行(現:みずほ銀行)の融資系列である「三金会」など、グループ企業が様々な企業グループに所属している[6]

沿革

1905年久原房之助が久原鉱業を設立し、日立鉱山を開山したことを始まりとする。多角化によって久原財閥を形成したが、第一次世界大戦後の慢性不況によって経営不振に陥ったことで、久原房之助は久原鉱業の経営を同郷出身で義兄の鮎川義介に託した。1928年に鮎川が久原鉱業社長に就任し、社名を日本産業株式会社(日産)に変更した。その後、日本産業を中心に日産コンツェルン(鮎川財閥)は急成長を遂げ、三大財閥の一つである住友をも凌駕し、三井三菱に次ぐ規模となった[7][8][4]

戦後、GHQによる財閥解体で日産コンツェルンは解体されたが、1962年、当時の日立製作所会長の倉田主税による呼びかけで、旧日産コンツェルンの主要会社(13社)の社長が春光会館に集まり、定例会を約した。これが「春光会」であり、旧日産コンツェルン、現在の春光グループの再結集がなった[7]。この際に、伊藤博文の息子である伊藤文吉(元:日本鉱業社長)の元私邸(現:春光会館)に集ったことから、文吉の雅号「春光」に因んでグループ名が名付けられた[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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