『校本宮澤賢治全集』が刊行される以前は「春と修羅 第四集」と呼ばれる詩編が全集に収録されていた。これについては、『校本全集』の編集に伴う草稿調査によって、賢治自身がそのような形でまとめた形跡がなく、「第三集」以後の作品の一部を便宜的にそのように呼称していたことが判明したため、『校本全集』以降は存在しなくなっている。従来「第四集」とされてきた詩編の多くは『校本全集』では「春と修羅 詩稿補遺」、『【新】校本宮澤賢治全集』では「口語詩稿」という形で全集に収録されている。
脚注
注釈^ この原稿は賢治の没後、行方不明となっていたが、1945年8月の花巻空襲の後、くすぶっていた実家の土蔵から発見された[6]。現存は「春と修羅」以降の原稿で、「序」など冒頭の推定11枚は逸失[7]。
^ 富永の1925年1月16日付正岡忠三郎宛書簡に言及がある[14]。
^ 中原中也と親交のあった大岡昇平によると、中也は1928年頃に渋谷の夜店にあるゾッキ屋で1冊5銭で売られていた『春と修羅』を「五冊ぐらい」まとめ買いしてその1冊を大岡に与え、残りは「誰かにやるのだ」と言って持ち帰ったという[16]。大岡は、中也がこのような勧め方をした詩集は「あとにも先にも『春と修羅』だけである」と記している[16]。大岡はこの文章の中で、中也の賢治に対する見方を考察した。
出典^ 入沢康夫「解説」『宮沢賢治全集1』、p.719
^ 入沢康夫「本文について」『宮沢賢治全集1』、p.699
^ a b c 入沢康夫「本文について」『宮沢賢治全集1』、p.700
^ a b 入沢康夫「本文について」『宮沢賢治全集1』、p.698
^ 堀尾、1991年、p.220
^ 宮沢清六「燻蒸された原稿」『兄のトランク』筑摩書房、1987年(初出は雑誌『四次元』1955年1月号、宮沢賢治研究会)
^ 『【新】校本宮澤賢治全集 第二巻【校異篇】』筑摩書房、1995年、pp.10 - 11。前記「燻蒸された原稿」では「7枚」と記載していた。
^ 入沢康夫「本文について」『宮沢賢治全集1』、pp.701 - 702
^ 入沢康夫「解説」『宮沢賢治全集1』、pp.724 - 727
^ 鈴木健司『宮沢賢治 幻想空間の構造』蒼丘書林、1994年、pp.35 - 46
^ 堀尾、1991年、p.222
^ 尾山篤二郎「最近の書架から」『自然』第3巻4号、1924年6月1日刊(『【新】校本宮澤賢治全集 第十六巻(上)【補遺・資料篇】』筑摩書房、1999年、pp.415 - 416に収録)
^ 『【新】校本宮澤賢治全集 第十五巻 書簡【本文篇】』筑摩書房、1995年、pp.233 - 234(1925年12月20日付)
^ 『【新】校本宮澤賢治全集 第十六巻 (上) 【補遺・資料篇】』筑摩書房、1999年、pp.513 - 514(初出は大岡昇平『富永太郎 : 書簡を通して見た生涯と作品』中央公論社、1974年)。
^ 中原中也「宮沢賢治全集