この法では、現職の映画人は無試験で登録は下りたが、昔監督だったスタアや、昔キャメラマンだった監督、昔俳優だった事務員たちは、食料や衣料が配給制だった時代でもあり、「この際、両方の登録をとっておいた方が都合がいい」と、わざわざ試験を受けた者もあった。
「実技考査」では、内田吐夢や五所平之助、木村荘十二、片岡千恵蔵、小杉勇といったさまざまな映画人たちが試験官を担当して話題となった。稲垣浩も試験官を命じられたが、春秋二回に施行されるこの試験審査は「頭の痛い、煩わしいものの一つだった」という。
受験者の中にどうしても点のとれない青年がいて、第一回では「もう半年見送って成長を待とう」と委員の意見が一致して落としたが、二回目以降も進歩がなく、三回目、四回目と同様だったため、ついに委員の方が根負けして通してしまった。入社後は小回りが利く便利な役者になり、戦後は助監督に転向の後、監督になったという。審査の意味のなさを物語るエピソードである。
小型映画も登録対象であり、稲垣ら映画人が作品審査を行った。多くの中、抜群といえる作品が一つあり、「これほどの作品を作る男を地方の片隅にうずもらせておくのは国家の損失」と、さっそく呼び寄せたところ、その男は精神異常に近い映画狂で、保護者なしでよく試験場まで出てこられたものだ、という大変な人物だった。稲垣は「委員をやったおかげで、天才と狂人が紙一重だという実物を見せてもらった一幕だった」と語っている。
稲垣の父親も風貌を買われて映画出演することがあったため登録しなければならなかったが、「いくら政府の命令でも親父を試験するわけにはいかない」と、このときだけは廊下に逃げ出して扉の隙から覗くばかりで、「こっちが試験を受けているようでつらかった」という。
中村鴈治郎(中村扇雀)も試験を受けなければならなかった。委員たちは考査の人員を書いた用紙を見たとたんに「うわぁー、今日は大物がいるぞ」と頭を抱え込んだ。「名にしおう成駒屋に実技試験をやらせるわけにもいかぬし、演技ならこっちが教えられるほうだ」、「ついでだから『河庄』の一節でもやってもらおうか」などと話題はここに集まったが、結局「顔を見せていただくだけにしよう」と意見がまとまった。
「成駒屋」は地味な和装で考査室に神妙に表れ丁寧に一礼したが、委員たちは机の前でただただ恐縮してニヤニヤ笑いをするばかり。溝口健二委員が「もうよろしいからどうぞ、どうぞ、お引き取りを」と声をかけるとキョトンとした顔で「へ? こりゃかなわん。えんりょのう、どうかやらしておくんなはれ」と返した。仕方なく伊藤大輔委員が、「あんたに演技をされたら、こっちゃが困りますのや」と言って、引き下がってもらった[8]。 映画法には、満14歳未満の児童は教育上害のある映画の観覧を禁止する[9]という、後年の映画のレイティングシステムにも繋がる概念も持ち込まれた。しかし運用面は単純かつ画一的で、「元禄恋模様 三吉とおさよ」の例では、子供向け短編アニメ映画であったにもかかわらず、剣劇と恋愛が含まれており国策にもふさわしくないとして14歳未満の入場が許されない「非一般映画」に指定された。このため映画法が及ばない中国大陸へ持ち出されて現地で上映された[10]。
レイティングシステム
関連書籍
映画撮影学読本(上・下巻)
「映画法」受験者のために、「大日本映画協会」が企画出版した入門指導書。挿絵は鷺巣富雄。上巻は昭和15年発行。撮影全般にわたる指導書で、碧川道夫、宮島義勇、小倉金彌