映画史
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アメリカの映画監督であるD・W・グリフィスが、『國民の創生』(1915年)、『イントレランス』(1916年)、『散り行く花』(1919年)等により、クローズアップ等の様々な映画技法(映画文法とも呼ばれる)を発明し、今日的な意味における映画の原型を完成させる。このことによりグリフィスは後に「映画の父」と呼ばれるようになる。また、『國民の創生』は当時の映画興行収入1位を記録した。

政治権力は映画の持つ影響力に目を付け、プロパガンダの手段として使うようにもなった。第一次世界大戦においてはアメリカやドイツでプロパガンダ作品が制作された。ヴァイマル共和政下のドイツは複数の映画会社が合併して国策撮影所であるウーファ(UFA)が設営された。

1910年代-1920年代、アメリカやヨーロッパでは『ファントマ』シリーズや『吸血ギャング団』シリーズ(いずれもフランス)などの連続活劇が流行している。

1917年長野県松本市岡山県岡山市において、児童の活動写真観覧を禁止する措置[5]
1920年代

1920年代には、チャールズ・チャップリンバスター・キートンハロルド・ロイドといったコメディ俳優が台頭し、「世界の三大喜劇王」と称される。

1920年、ソ連において世界初の国立映画学校が創設され、クレショフがその教授として招聘された。クレショフは同校においてクレショフ映画実験工房(一般的にはクレショフ工房と略称で呼ばれる)なるワークショップを運営し、モンタージュ理論を打ち立てると共に、その実験を行った。

同年、ロベルト・ヴィーネ監督による『カリガリ博士』が公開される。本作はフィルム・ノワール、およびホラー映画シュルレアリスムにも影響を与えた重要な作品として位置づけられることが多い。またドイツにおいて第一次世界大戦前に始まり1920年代に最盛となった、客観的表現を排して内面の主観的な表現に主眼をおくことを特徴とした芸術運動「ドイツ表現主義」の代表的な作品であり、映画としては最も古く、最も影響力があり、なおかつ、芸術的に評価の高い映像作品とされる。他にも『メトロポリス』や『M』のフリッツ・ラングや、『吸血鬼ノスフェラトゥ』のF・W・ムルナウ等が活躍した。

1921年、ドイツでハンス・リヒターにより、ダダイスムの一表現として幾何学模様の変容を映した『絶対映画』というアニメーション映画が作られる。遅れて1927年、マルセル・デュシャンによってフランスでも幾何学模様の変容(デュシャン作品は円盤の回転)による『純粋映画』が試みられた。ダダイスムのグループは実写による筋書き(ただし一貫性のある物語ではない)を持つ映画『幕間』も作っており、こちらはデュシャン本人をはじめエリック・サティなどが出演している。上映用の付随音楽はサティによって作曲され、これがサティの遺作となった。

1922年、世界初のドキュメンタリー映画とされる『極北のナヌーク』が公開される。カナダ北部で暮らすイヌイットの文化・習俗を収めた作品で、映画というものが記録・啓蒙にきわめて大きな役割を果たしうると考えていたイギリスの映画プロデューサージョン・グリアソン(en) が、その批評の中で「ドキュメンタリー」という言葉を初めて用いたことが始まり[6]

1925年、クレショフ工房の生徒であったセルゲイ・エイゼンシュテインはモンタージュ理論に基づき『戦艦ポチョムキン』を制作。エイゼンシュテインと共にクレショフ工房の出身者であったフセヴォロド・プドフキンボリス・バルネットジガ・ヴェルトフなどはモンタージュ理論を元にした作品を製作し、ロシア・アヴァンギャルドにおける代表的映画監督となる。

1927年に『メトロポリス』が公開され、以降多数のSF作品に多大な影響を与え、世界初のSF映画とされる『月世界旅行』が示した「映画におけるサイエンス・フィクション」の可能性を飛躍的に向上させたSF映画黎明期の傑作とされている。また、前年の1925年に製作された『戦艦ポチョムキン』と並んで、当時の資本主義共産主義の対立を描いた作品でもある。

1927年、アメリカで世界初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』(アラン・クロスランド監督)公開。映画全編を通してのトーキーではなく、部分的なトーキー(パートトーキー)であったが、本作をきっかけにトーキーは世界的に受け入れられ、急速に普及した。もっともアメリカのチャールズ・チャップリン、ロシアのエイゼンシュタインといった映画製作者、映画伴奏の楽士や日本特有の映画職業であった活動弁士を生業とする人々など、熟成の期にあったサイレント映画に固執した人々も多く、本格的にトーキー映画の芸術性が認められたのは30年代に入ってよりの事である。

1928年、ディズニー制作の短編アニメーション作品『蒸気船ウィリー』が公開。一般的に、この作品がミッキーマウスミニーマウスのデビュー作とされ、世界で初めてサウンドトラック方式を採用した映画と言われている。

同年、長編映画として世界初のオール・トーキー映画『紐育の灯』が公開。

1929年、アメリカでアカデミー賞が始まる。初年度作品賞はウィリアム・A・ウェルマンの『つばさ』。なお、初年度についてのみ作品賞は二作品が選ばれており、もう一つの作品であるF・W・ムルナウの『サンライズ』には芸術作品賞という名目で賞が与えられている。

1920年代から1930年代にかけて、ジャック・フェデールネ・クレールジュリアン・デュヴィヴィエマルセル・カルネらのフランスの作家が登場して商業的な成功を収め、フランス映画の黄金時代を形成する。後にこれらの作家・作品は、映画批評家のジョルジュ・サドゥール(Georges Sadoul)によって「詩的リアリズム」と定義された。特定のジャンルといえるほど明確ではないが、大型セットにおけるスタジオ撮影を基本とし、遠近などに関して誇張を行なう場合が多く、そのため画面上におけるパースペクティブに歪みを生じさせることが多い。

1929年、アヴァンギャルド映画の原点、シュルレアリスムの最高傑作と評される実験映画アンダルシアの犬』が公開。
1930年代風と共に去りぬ(1939年)
ハリウッド黄金期

第二次世界大戦の影響を受け、フリッツ・ラングドイツ)やジャン・ルノワール(フランス)等の多くの映画人がアメリカに亡命する。亡命ではなく招聘されてあるいは自ら望んでアメリカに行ったマックス・オフュルスエルンスト・ルビッチ(ドイツ)、ルネ・クレール(フランス)などの作家も含めると、1930年代から1940年代にかけてのアメリカには著名な多くの映画作家が世界中から集まっていた。

スタジオ・システムにより、映画製作本数も年間400本を超え、質量共にアメリカは世界の映画界の頂点にあった。


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