星新一
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卒業論文は固形ペニシリンの培養についてであった。

高級官吏採用試験である高等試験[注釈 5]に合格したが、内定を取ることに失敗した。なおかつ役人嫌いの父に受験が発覚し、厳しく叱責された。東大の大学院に進学し、坂口謹一郎のもとで農芸化学を研究する。液体内での澱粉分解酵素ジアスターゼの生産などをした。1950年(昭和25年)に大学院の前期を修了する[注釈 6]。修士論文は「アスペルギルス属のカビの液内培養によるアミラーゼ生産に関する研究」(アスペルギルスはコウジカビのこと)であった[11]

1949年(昭和24年)、同人誌「リンデン月報」9月号にショートショート第1作『狐のためいき』を発表する。
星製薬時代

1951年(昭和26年)、父が急逝したため同大学院を中退し、会社を継ぐ。当時の星製薬は経営が悪化しており、経営は破綻、会社を大谷米太郎に譲るまでその処理に追われた[12][8]。この過程で筆舌に尽くしがたい辛酸をなめた星自身は後に「この数年間のことは思い出したくもない。わたしの性格に閉鎖的なところがあるのは、そのためである」と語っている。

会社を手放した直後、病床でレイ・ブラッドベリの『火星年代記(火星人記録)』を読んで感銘を受ける。この出会いがなければSFの道には進まなかっただろうと回顧する。星は厳しい現実に嫌気が差し、空想的な「空飛ぶ円盤」に興味を持つようになる。たまたま近くにあった「空飛ぶ円盤研究会」に参加した。この研究会は三島由紀夫石原慎太郎が加わっていたことでも知られている。

星製薬退社後は作家デビューまで浪人生活が続くが、自宅が残っていた上に、星薬科大学の非常勤理事として当時の金額で毎月10万円が給付されており、生活に窮するようなことはなかった[注釈 7]
作家デビュー

1957年(昭和32年)、「空飛ぶ円盤研究会」で知り合った柴野拓美らと日本初のSF同人誌「宇宙塵」を創刊する。第2号に発表した『セキストラ』が大下宇陀児に注目され[注釈 8]、当時江戸川乱歩が責任編集を務めていた「宝石」に転載されてデビューした[8]

1958年(昭和33年)には、多岐川恭が創設した若手推理小説家の親睦団体「他殺クラブ」に、河野典生樹下太郎佐野洋、竹村直伸、水上勉結城昌治と参加した[14]。なお、「他殺クラブ」については、佐野洋の自伝『ミステリーとの半世紀』(小学館)には、「1960年3月結成」とある(同書、P.130)。星が直木賞候補となるきっかけをつくった『ヒッチコック・マガジン』。最初の作品が掲載された同誌1960年1月号。

1959年(昭和34年)11月21日発売の月刊誌『ヒッチコック・マガジン』1960年1月号に「年賀の客」が掲載され、「文春漫画読本」からも注文がくる。『ヒッチコック・マガジン』8月号?11月号に掲載された「雨」「その子を殺すな![注釈 9]」「信用ある製品」「食事前の授業」と、『宝石』9月号、11月号に掲載された「弱点」「生活維持省」の計6編のショートショートで、第44回直木賞(1960年下半期)の候補となる[15]。また、この年に横山光輝原作の実写版テレビドラマ『鉄人28号』でSFアドバイザーとしてクレジットされた。

1961年(昭和36年)、医者の娘で小牧バレエ団バレリーナだった村尾香代子と見合い結婚した。髪が長いのが結婚を決意する決め手になったと後年語った。

1963年(昭和38年)、福島正実の主導による日本SF作家クラブの創設に参加した。同年、同クラブの一員として、ウルトラシリーズ第1作『ウルトラQ』の企画会議に加わる。会議に同席した『変身』、『悪魔ッ子』の脚本担当者・北澤杏子の証言によると、この場においては後に伝説となるような飛躍した発想の発言は聞かれなかったとのことである。また、この年に福島正実と2人で、特撮映画『マタンゴ』の原案にクレジットされているが、実際はほとんどタッチしていない。
SF小説の巨匠として

以降、40代から50代ながら、SF界では「巨匠・長老」として遇されることになる。1976年(昭和51年)から1977年(昭和52年)まで「日本SF作家クラブ」の初代会長を務めた。

1979年(昭和54年)、「星新一ショートショート・コンテスト」の選考を開始する。(詳しくは#星新一ショートショート・コンテストを参照)

1980年(昭和55年)、日本推理作家協会賞の選考委員を務める(昭和56年(1981年)まで)。

1983年(昭和58年)秋に「ショート・ショート1001編」を達成した。ただし、それまで関係が深かった各雑誌に一斉にショート・ショートを発表したため、「1001編目」の作品はどれか特定できないようにされている。

それ以降は著述活動が極端に減ったが、過去の作品が文庫で再版される都度、「ダイヤルを回す(=ダイヤル式の電話をかける)」等の「現代にそぐわない記述」を延々と改訂し続けていた。

かねてより「住んでみたい街」に東京都港区高輪を挙げており[注釈 10]、母の死去による戸越の自宅の売却に伴い、1993年(平成5年)、高輪のマンションに転居した。
後年・死去

1994年(平成6年)に口腔癌と診断され、手術を受ける。

入退院を繰り返した後、1996年(平成8年)4月4日に自宅で倒れて東京慈恵会医科大学附属病院に入院。肺炎を併発して人工呼吸器の必要な状態であったが、4月20日には人工呼吸器を外すことができた。しかし4月22日の夜中、酸素マスクが外れ、呼吸停止に陥っているところを看護師に発見された。

自発呼吸は再開したものの、それ以後意識を取り戻すことはなく、1997年(平成9年)12月30日18時23分、高輪の東京船員保険病院(現・JCHO東京高輪病院)で間質性肺炎のために死去した。71歳没[17]
評価

2007年(平成19年)、死後10年目にして、星が残していた大量のメモ類と130名余の関係者へのインタビューを基にした最相葉月の大部の評伝『星新一 一〇〇一話をつくった人』(新潮社)が刊行され、「ひょうひょうとした性格」と思われていた星の人間的な苦悩や「子供向け作家」と扱われていることへの不満、家族との確執、筒井など後輩作家への嫉妬などが赤裸々に描かれ、従来の「星新一」像を覆す内容で衝撃を与えた。

また、この書では初期には直木賞落選が名誉と受け止められるほど@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}ハイブロウ(英語版)な[要校閲]存在として遇され、安部公房純文学とSFの両分野で評価されていた)のライバル心をかきたてるほどであった星が、後に大衆に広く受け入れられるに従って文学的評価が伴わなくなってきた変遷も描き出されている。

星作品の文庫解説には、SF作家仲間や親友ともいえる交友のあった北杜夫以外にも、井上ひさし大庭みな子鶴見俊輔尾崎秀樹奥野健男ら大物の名が並ぶ(奥野などは本来は新潮文庫での太宰治担当解説者である)。晩年の谷崎潤一郎が星作品を愛読していたと石川喬司が紹介しており、また星が「歴史もの」を執筆するにあたり、星から取材を受けた池波正太郎もその新境地開拓を称賛するなど、後述するSFファンの冷淡さに比べると文壇内部での評価は決して低くはなかった。
受賞(受賞候補)歴

1960年(昭和35年)、ショートショート6編(『弱点』、『生活維持省』、『雨』、『その子を殺すな!
[注釈 9]』、『信用ある製品』、『食事前の授業』)で第44回直木賞の候補作に選ばれる(最終受賞者は寺内大吉黒岩重吾[15]


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