易経
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『易経』(えききょう、正字体:易經、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: Yi J?ng)は、古代中国の書物。著者は伏羲とされている[注釈 1]

の時代から蓄積された卜辞(ぼくじ)を集大成したものとして易経は成立した。『卜』(ぼく)が動物である亀の甲羅や牛や鹿の肩甲骨に入ったヒビの形から占うものであるのに対して、『筮』(めどき/めどぎ)は植物である『蓍[注釈 2]』(シ、めどぎ)の茎の本数を用いた占いである。現代では、哲学書としての易経と占術のテキストとしての易経が、一部重なりながらも別のものとなっている。中心思想は、陰陽二つの元素の対立と統合により、森羅万象の変化法則を説く。

易経は儒家である荀子の学派によって儒家の経典として取り込まれた。「玄学」の立場からは『老子道徳経』・『荘子』と合わせて「三玄(の書)」と呼ばれる。また、中国では『黄帝内經』・『山海經』と合わせて「上古三大奇書」とも呼ぶ。
概要

儒教の基本書籍である五経の筆頭に挙げられる経典であり、『周易』(しゅうえき、Zh?u Yi)または単に『易』(えき)とも呼ぶ。通常は、基本の「経」の部分である『周易』に儒教的な解釈による附文(十翼または伝)を付け加えたものを一つの書とすることが多く、一般に『易経』という場合それを指すことが多いが、本来的には『易経』はの卦画・卦辞・爻辞部分の上下二篇のみを指す。

三易の一つであり、太古よりの占いの知恵を体系・組織化し、深遠な宇宙観にまで昇華させている。今日行われる易占法の原典であるが、古代における占いは現代にしばしば見られる軽さとは大いに趣きを異にし、共同体の存亡に関わる極めて重要かつ真剣な課題の解決法であり、占師は政治の舞台で命がけの責任を背負わされることもあった。

古来、占いを重視する象数易と哲理を重視する義理易があり、象数易は漢代に、義理易は宋代に流行した。

史記』日者列伝で長安の東市で売卜をしていた楚人司馬季主と博士賈誼との議論において、易は「先王・聖人の道術」であるという記述がある。[1]
書名

この書物の本来の書名は『易』または『周易』である。『易経』というのは以降の名称で、儒教の経書に挙げられたためにこう呼ばれる。

なぜ『易』という名なのか、古来から様々な説が唱えられてきた。ただし、「易」という語がもっぱら「変化」を意味し、また占いというもの自体が過去・現在・未来へと変化流転していくものを捉えようとするものであることから、何らかの点で “変化” と関連すると考える人が多い。

有名なものに「易」という字が蜥蜴に由来するという “蜥蜴説” があり、蜥蜴が肌の色を変化させることに由来するという。

また、「易」の字が「日」と「月」から構成されるとする “日月説” があり、太陽太陰)で陰陽を代表させているとする説もあり、太陽の運行から運命を読みとる占星術に由来すると考える人もいる。

伝統的な儒教の考えでは、『周易正義』が引く『易緯乾鑿度』の「易は一名にして三義を含む」という「変易」「不易」「易簡(簡易)」(かわる、かわらぬ、たやすい)の “三易説” を採っている。

また、『周易』の「周」は中国王朝の周代の易の意であると言われることが多いが、鄭玄などは「周」は「あまねく」の意味であると解している。しかし、『史記』日者列伝には、「周代において最も盛んであった」という記述がある。[1]
『易経』の構成

現行『易経』は、本体部分とも言うべき(1)「経」(狭義の「易経」。「上経」と「下経」に分かれる)と、これを注釈・解説する10部の(2)「」(「易伝」または「十翼(じゅうよく)」ともいう)からなる。


「経」には、六十四卦のそれぞれについて、図像である卦画像と、卦の全体的な意味について記述する卦辞と、さらに卦を構成している6本の位(こうい)の意味を説明する384の爻辞(乾・坤にのみある「用九」「用六」を加えて数えるときは386)とが、整理され箇条書きに収められ、上経(30卦を収録)・下経(34卦を収録)の2巻に分かれる。


伝(十翼、易伝)

「伝」(「易伝」、「十翼」)は、「彖伝(たんでん)上・下」、「象伝(しょうでん)上・下」、「繋辞伝(けいじでん)上・下」、「文言伝(ぶんげんでん)」、「説卦伝(せっかでん)」、「序卦伝(じょかでん)」、「雑卦伝(ざっかでん)」の計10部である。これらの中で繋辞伝には小成八卦の記述はあるものの、大成卦の解説では大成卦を小成八卦の組み合わせとしては解しておらず、繋辞伝が最初に作られた「伝」と推測される。

「彖伝上・下」には、「周易上・下経」それぞれの卦辞の注釈が収められている。

「象伝上・下」には、各卦の象形の意味についての短い解説と、その爻辞の注釈が収められている。易占家の間では、前者部分を「大象」、後者部分を「爻伝」、というふうに呼称を区別していることがある。

「文言伝」では、六十四卦のうち最も重要かつ基本の位置づけにある二卦である、乾(けん)および坤(こん)について、詳しい訓詁的な解説がなされる。

「繋辞伝上・下」には、易の成り立ち、易の思想、占いの方式、など、『易』に関する包括的な説明が収められている。

「説卦伝」では、大成六十四卦のもととなる小成八卦の概念、森羅万象をこの八種の象に分類するその分類のされ方が、詳説される。

「序卦伝」には、現行の「周易上・下経」での六十四卦の並び方の理由が説明されている。

「雑卦伝」では、占いにあたって卦象を読み解く際の、ちょっとしたヒントが、各卦ごとに短い言葉で述べられる。着目ヒント集である。

1973年、馬王堆漢墓で発見された帛書『周易』写本に「十翼」は無く、付属文書は二三子問・繋辞・易之義・要・繆和・昭力の六篇で構成されていた。
現代

現代出版されている易経では、一つの卦に対して、卦辞、彖、象、爻辞の順でそれぞれが並べられていることが多く、「経」、「彖」、「象」を一体のものとして扱っている。たとえば「易―中国古典選10」[2]では、一つの卦は、王弼・程頤にならい以下のように編集されている。

卦:(経)卦のシンボルイメージ。伏羲作とされる。

卦辞:(経)卦の名前と説明。文王作とされる。

彖伝:(伝)卦辞の注釈。

大象:(伝)象伝中の卦の説明部分。


爻辞:(経)初爻の説明。周公作とされる。

小象:(伝)初爻に関する、象伝中の爻の説明部分。

(のこり5爻の爻辞・小象)

文言伝:(伝)乾坤の卦のみ。

易の成立と展開八卦の生成
易経の成立

易経の繋辞上伝には「易は聖人の著作である」ということが書かれており、儒家によって後に伝説が作られた。古来の伝承によれば、易の成立は以下のようなものであったという。まず伏羲八卦を作り、さらにそれを重ねて六十四卦とした(一説に神農が重卦したとも)。次に文王が卦辞を作り、周公が爻辞を作った(一説に爻辞も文王の作とする)。そして、孔子が「伝」を書いて商瞿(しょうく)へと伝え、代の田何(でんか)に至ったものとされる。この『易』作成に関わる伏羲・文王(周公)・孔子を「三聖」という(文王と周公を分ける場合でも親子なので一人として数える)。孔子が晩年易を好んで伝(注釈、いわゆる「十翼」といわれる彖伝・繋辞伝・象伝・説卦伝・文言伝)を書いたというのは特に有名であり、『史記』孔子世家には「孔子は晩年易を愛読し、彖・繋・象・説卦・文言を書いた。易を読んで竹簡のとじひもが三度も切れてしまった」と書かれており[3]、「韋編三絶」の故事として名高い。このような伝説は儒家が『易』を聖人の作った経典としてゆく過程で形成された。伏羲画卦は「易伝」の繋辞下伝の記述に基づいており、庖犧(伏羲)が天地自然の造型を観察して卦を作り、神明の徳に通じ、万物の姿を類型化したとあり、以後、庖犧-神農-黄帝--と続く聖人たちが卦にもとづき人間社会の文明制度を創造したとある。

しかしながら、この伝説は古くから疑問視されていた。易の文言が伝承と相違している点が多いためである。その嚆矢となったのは欧陽脩である。彼は著書『易童子問』において「十翼は孔子の著作ではない。複数の人間の著作物だろう。内容が混乱しており、1人の作とは思えない」と疑問を呈した。童子問うて曰く。「『?辞』はこれ聖人の作に非ざるか。」曰く。「何ぞ独り?辞のみならんや。『文言』・『説卦』の下は、皆な聖人の作に非ず。而して衆説淆乱し、亦た一人の言にあらざる也。」 ? 欧陽脩、『欧陽脩集』巻七十八、易童子問ウィキソース 歐陽修集 卷七十八・易童子問卷三

宋代以降易経の成立に関する研究が進めば進むほど、伝説が信じがたく、欧陽脩の説が正しいことが明らかになっていった。内藤湖南は論文『易疑』で「殊に歐陽修が十翼を以て一人の手に成つたものでないとしたのは卓見と稱すべきである。」 ? 内藤湖南、『易疑』内藤湖南全集 第七卷『易疑』(青空文庫版)

と欧陽脩の説を評価し、更に「商瞿以來の傳授が信ぜられぬことの外、即ち田何が始めて竹帛に著はしたといふことは、恐らく事實とするを得べく、少くとも其時までは易の内容にも變化の起り得ることが容易なものと考へられるのである。それ故筮の起原は或は遠き殷代の巫に在りとし、禮運に孔子が殷道を觀んと欲して宋に之て坤乾を得たりとあるのが、多少の據りどころがあるものとしても、それが今日の周易になるには、絶えず變化し、而かも文化の急激に發達した戰國時代に於て、最も多く變化を受けたものと考ふべきではあるまいか。


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