明治
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1882年(明治15年)、政府内で実権を握った伊藤は憲法調査のためヨーロッパを訪問[注釈 17][34]。帰国後1884年(明治17年)華族令を制定して国家の功労者にも爵位を与えて華族とし、貴族院を作るための華族制度を整えた。1885年(明治18年)には太政官制を廃止して内閣制を導入し、初代内閣総理大臣には伊藤博文が就任、1888年(明治21年)新設された枢密院の議長にも就任した。1888年(明治21年)には市制町村制府県制郡制が公布され地方自治制が実施された。1889年(明治22年)大日本帝国憲法、翌1890年(明治23年)教育勅語が発布された。

伊藤以降の初期内閣の構成はいずれも薩摩藩黒田清隆、松方正義)と長州藩(伊藤博文、山縣有朋)を中心にして組閣され、1890年(明治23年)11月25日帝国議会の幕が開いた。以後激しい選挙干渉にて民党を抑えようとしたが、1892年(明治25年)に成立した第2次伊藤内閣の時には政府と自由党が次第に歩み寄りを進め、協力して政治を運用するようになった。

伊藤博文

黒田清隆

山縣有朋

松方正義

条約改正問題「外国人司法官任用問題」も参照鹿鳴館青木周蔵

19世紀後半にアジアの多くの国々は欧米諸国の植民地となっていたが、幕末以来の不平等条約を改正して関税自主権の確立(税権回復)と領事裁判制度の撤廃(法権回復)とを実現することが、日本にとって欧米諸国と対等の地位に立つためには何よりも重要であった。1871年(明治4年)、日本と清国日清修好条規に調印。1873年(明治6年)に外務卿副島種臣は、清国皇帝に謁見し日清修好条規批准書の交換を行った。

1878年(明治11年)に外務卿寺島宗則の下でアメリカとの間で税権回復の交渉が成立したが、イギリスなどの反対により新しい条約は発効しなかった。後を継いだ外務卿井上馨欧化政策を取り、風俗や生活様式を西洋化して交渉を有利に運ぼうとした。1883年(明治16年)に日比谷に建てられた「鹿鳴館」では、政府高官や外国公使などによる西洋風の舞踏会がしきりに開かれた。井上の改正案は外国人に日本国内を開放(内地雑居)するかわりに税権の一部を回復し、領事裁判制度を撤廃するというものであったが、国権を傷つけるものだとして政府内外から強い反対が起こり、1887年(明治20年)交渉は中止され、井上は辞職した。

これに続いて、1889年(明治22年)大隈重信外相がアメリカ・ドイツロシアとの間に新条約を調印したが、大審院(現在の最高裁判所に相当)に限り外国人裁判官の任用を承認していたので、『新聞日本』を基盤に持つ東邦協会メンバーを皮切りに国民協会を率いる保守派の品川弥二郎鳥尾小弥太、民権派の星亨を中心として再び国内に反対運動が起きた。大隈は玄洋社の活動家に爆弾を投げつけられて負傷したため交渉は中止となって新条約は発効せず、またその後も青木周蔵外相の交渉が1891年(明治24年)に訪日したロシア帝国皇太子(当時、後のニコライ2世皇帝)が滋賀・大津で警護の警察官に襲われて負傷(大津事件)したことにより挫折するなど、条約改正は難航した。

その後、イギリスは東アジアにおけるロシアの勢力拡張に警戒心を深め、日本との条約改正に応じるようになった。1894年(明治27年)に外務大臣陸奥宗光は駐英公使青木周蔵に交渉を進めさせ、イギリスとの間で領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復を内容とした「日英通商航海条約」の調印に成功した。関税自主権の完全回復は、後に持ち越された。
大日本帝国憲法大日本帝国憲法の発布式井上毅詳細は「大日本帝国憲法」を参照
憲法制定に至るまで
伊藤博文井上毅伊東巳代治金子堅太郎ヘルマン・ロエスレルらと憲法制定の準備を開始し、1888年(明治21年)枢密院を設置した。そして、1889年(明治22年)黒田清隆内閣の時に君主権が強いプロイセン憲法を模倣した大日本帝国憲法が明治天皇から臣下に授ける形で制定された。
大日本帝国憲法の内容
同憲法は天皇第3条で神聖不可侵と規定し、第4条で統治権を総攬する元首と規定した。つまり形式上は天皇が権力の総元締ということになった。三権に関しては以下の通り。第一に立法権であるが、天皇は第5条において帝国議会の協賛を以って行使すると規定された。天皇の立法権は概ね法律の裁可が中心で、またその裁可には国務大臣の副署が必要とされた。つまり、大臣の副署を経てから天皇が裁可し法案が成立する、という形式である。また、帝国議会は選挙で選ばれる国会議員からなる衆議院(下院)と華族皇族などからなる貴族院(上院)の二院で構成された。第二に行政権であるが、後の日本国憲法と異なり議院内閣制に基づく連帯責任ではなく、第55条で各国務大臣は天皇を輔弼し個別に責任を負うものであった。第三に司法権であるが、第57条で天皇の名において法律により裁判所が司法権を行うものであった。この憲法の問題は主なものに以下の2つが挙げられる。第1は第11条に規定されている「天皇は陸海軍(大日本帝国陸軍大日本帝国海軍)を統帥する」という規定であった。陸軍省海軍省を有する内閣や帝国議会は軍部(陸軍:参謀本部、海軍:軍令部)に対して直接関与できなかった。第2は第21条で規定された「法律の範囲内において自由である」という臣民(国民)の権利であった。また、黒田清隆首相は「政党の動向に左右されず、超然として公正な施策を行おうとする政府の政治姿勢」を示し、議会と対立した。その後1889年(明治22年)の大日本帝国憲法公布に伴い「衆議院議員選挙」法が公布され、「直接国税15円以上を納税した満25歳以上の男子のみ」に選挙権を与えた制限選挙を実施し、1890年(明治23年)に最初の第1回帝国議会が開会された。
発布
憲法の発布により天皇中心の国家体制が確立されるとともに国民の権利と自由が認められ、国政参加への道が開かれた。不十分であったとはいえ、他のアジア諸国に先駆けて憲法と議会を持つ近代国家への道を歩み始めた。日本法において民法商法などの諸法典も制定された。民法はフランスのギュスターヴ・エミール・ボアソナードの助言を受け、フランス民法典と日本の慣習法を折衷したものであったが、特に「家族制度についての規定が家父長制に基づく日本の美風に背く」として非難が起こり実施が一時延期された。


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