明治
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1871年(明治4年)には、いわゆる解放令によってこれまでえたひにんとされていた賎民の人々も平民に編入された[注釈 11]。ただし、その後も部落問題として余韻は残したままとなった。
明治国家の形成

1869年(明治2年)に、律令制度の行政機構を復活させ、役所機構を整備して宮内省民部省大蔵省刑部省兵部省外務省の六省を設置したが、律令体制時代に存在した中務省式部省治部省の三省は復活設置されなかった。しかし、戸籍土木租税駅逓通商鉱山を管轄する民部省出納、秩禄、造幣営繕を管轄する大蔵省の民蔵両省の官吏は、財政及び貿易問題で外国人と接する機会が多く、また職務が実質的合理的思考を必要としたので、1870年(明治3年)4月に太政官が旧朝敵藩の贖罪金免除に大蔵省が反発するなど、しばしば両省の争いが政府内の紛乱の種となった[26]。しかし、後に民部省が大蔵省に統合されると、大蔵省に産業、財政の強大な権力権限が集中し、官僚社会に強固な勢力を築き上げた。

軍事上の改革では民部省大輔兼軍務官副知事の大村益次郎(長州藩士)が「農民を募り親兵」とする国民皆兵による政府軍を作る計画を進め、1873年(明治6年)1月10日、陸軍卿山縣有朋を中心に徴兵令を公布し身分に関わり無く20歳以上の男子に兵役の義務を課した(ただし実質的には、徴兵制度の例外として戸主は徴兵を免除され、主として戸主以外の次三男層や貧農層の子弟が兵役を担ったため、血税一揆が起きた)。兵役は3カ年。軍隊に直接入隊しない者も、17歳から40歳までの男子はことごとく兵籍を与えられ戦争があるときは呼び出されることとなった。男子の国民皆兵の原則である。この原則が1873年(明治6年)から1945年(昭和20年)の第二次世界大戦敗戦までの72年間、人々の生活を支配した。しかし、資産家や富裕層など財産のある者は例外となった[27]。治安面では1874年(明治7年)東京に警視庁を置いた。華族・士族は廃藩置県後も政府から家禄を支給されていたが、1876年(明治9年)金禄公債を支給してそれを年賦で支払うこととし、一切の家禄支給を停止した(秩禄処分)。これにより士族の地位は著しく下がった。

外交では1871年(明治4年)11月12日、江戸幕府政権時に西洋諸国間と結んだ不平等条約改正の予備交渉と欧米先進国の文物の調査を目的に、岩倉具視を全権大使、大久保と木戸を全権副使とする大規模な使節団を欧米諸国に派遣した。この岩倉使節団には伊藤博文山口尚芳ら中堅官吏が随行し、1年9ヶ月にわたって12カ国を訪問した。その目的の一つであった不平等条約の改正は成功しなかったが、政府は西洋文明の実態に触れ日本の近代化を推し進める大きな原動力となった。新政府は、日朝国交正常化のため李氏朝鮮に外交使節を送ったが、李氏朝鮮は徹底的な鎖国政策を採り、大院君政府は何らの回答もよこさなかった。次いで、釜山にある日本公館に対して生活物資搬入妨害するなど、朝鮮側が日本を非難する事件が発生。これらの理由から1873年(明治6年)夏から秋にかけていわゆる「征韓論」の論争が起こり、問題が大きくなっていた。6月12日に初めて閣議の議題に上った[注釈 12][28]。そこで、政府は8月17日の閣議で西郷隆盛の朝鮮派遣使節任命を決めた。征韓議論図 中央左に岩倉具視、中央右に西郷隆盛、右に江藤新平

欧米諸国の朝鮮進出を警戒して、西郷隆盛板垣退助らは朝鮮の開国を迫り征韓論を唱えた。しかし、1873年(明治6年)欧米視察から帰国した岩倉具視・大久保利通らは国内改革の優先を主張してこれに反対した(明治六年政変[注釈 13][29]。西郷・副島・後藤・板垣・江藤ら5参議が下野したのち、江華島事件が勃発して1876年(明治9年)日朝修好条規(江華条約)を結んで朝鮮を開国させた。また、清国に対しては1871年(明治4年)日清修好条規を結んで琉球藩を置き、1874年(明治7年)台湾に出兵した(征台の役)。次いで1879年(明治12年)沖縄県を設置した。ロシアに対しては1875年(明治8年)に樺太・千島交換条約を結び、樺太をロシア領、千島列島を日本領と定めた。また小笠原諸島尖閣諸島竹島も日本の領土とし、日本の領域をいったん確定した。

内国行政では留守政府が1872年(明治5年)2月に田畑永代売買解禁、4月に庄屋名主戸長と改称、7月に全国一般に地券発行を行い、帰国した大久保は1873年(明治6年)に内務省を設置、殖産興業の育成に力を入れてお雇い外国人らを用いて富岡製糸場など多くの官営工場を設立した。財政面では、民部省を統合した大蔵省の大蔵卿・大久保と大蔵大輔井上馨が改正局を設立して、井上直属の部下渋沢栄一を掛長に抜擢し、1871年(明治4年)には各藩の藩札等を廃止して新貨条例を制定、貨幣の単位をに統一した。1872年(明治5年)に国立銀行条例を制定し国立銀行を各地に作らせた。

蝦夷地北海道と改められて開拓使を置き、屯田兵などと共に本格的な開拓事業を展開した。通信では江戸時代の飛脚制度にかわり、まず三府(東京・京都・大阪)で1871年(明治4年)郵便事業が開始され、電信も1869年(明治2年)に東京-横浜間で開通した。運輸関連では1872年(明治5年)新橋-横浜間で官営の鉄道が開通した。海運事業は政府の保護の下に三菱商会を中心に発達した。

建築等も煉瓦造の建物が見られるようになり、都心部では家々には石油ランプがともされて街灯にはガス灯が登場、馬車人力車が走るようになった。軍服には洋服が採用され、政府官吏が順次服装を西洋化していった。また、西洋化する日本市場を狙いスタンダードチャータード銀行フリードリヒ・バイエル大北電信会社など外資の進出が東京や横浜、神戸などで相次ぎ、また欧米で1850年頃に普及しはじめたトイレットペーパーが、この頃新聞の普及とともに都心部で急速に普及したが、地方ではまだまだであった。

司法面では法治主義司法権の自立、三権分立を推進するため、初代司法卿江藤新平がその任に当たったが、留守中の長州藩の首領・近衛都督山縣有朋が、陸軍省御用商人山城屋和助の公金費消事件に関わったとされる山城屋事件、大蔵大輔井上馨(長州藩士)が職権を濫用して民間人から尾去沢銅山を巻き上げた事件(尾去沢銅山事件)、長州藩出身の京都府参事槇村正直の人民への圧政などを激しく追及、裁判所設立予算を巡る対立も絡んで3人を一時的に辞職に追い込むなどして長州閥を一掃したことで江藤は次第に政府内から煙たがられる存在となり、留守政府の五参議西郷江藤板垣後藤副島)免職の発端の一つになった。


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