明治
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こうした中で、政府は9月に「藩制」を公布し、藩への統制をさらに強めた[24]。藩に共通する職制、財政の規定を示し、重要な賞罰は政府の許可を得ることや、藩士身分の単純化、藩債、藩札の整理を命じた。他方、政府への不満を抑えるため、11月29日、藩地に帰郷した島津久光と、藩政改革を通して薩摩藩の軍備強化に努め、全国から集結した士族約1万2千人の兵士軍団を束ねて政府を無言で威圧していた西郷隆盛に上京するよう説得するため、岩倉具視が勅使として、大久保利通木戸孝允が随員として鹿児島に向かい、西郷の受諾を得てようやく政権を安定させた[25]

こうして世情が安定すると、政府は1871年(明治4年)7月にまず薩長土の3藩から御親兵を募って中央の軍事力を固め、次いで一挙に廃藩置県を断行した。全国の261藩は廃止され、3302に変わり、日本は中央集権的統一国家となった。藩知事士族は保障され、藩債を肩代わりした。身分制度の改革を行い、大名公家華族とする華族制度(日本国憲法が施行されるまで存在した、西洋式に倣った日本の貴族制度)の創設と、武士身分を士族として、農工商民(百姓町人)などを平民とし、日本人大和民族)は皆「国民」(明治憲法下では「臣民」とも呼ばれた)とされ、日本国民全員に苗字の公称を認めた四民(士農工商)平等政策を取った。戸籍法を制定し、華族・士族の散髪、脱刀並びに華士族平民間通婚を自由にし、田畑勝手作りを認め、府県官制制定を行い華士族の農工商従事を許可した。なおこれらとは区別して、天皇と血縁関係のある皇族皇室構成員)の地位もまた定められた。1871年(明治4年)には、いわゆる解放令によってこれまでえたひにんとされていた賎民の人々も平民に編入された[注釈 11]。ただし、その後も部落問題として余韻は残したままとなった。
明治国家の形成

1869年(明治2年)に、律令制度の行政機構を復活させ、役所機構を整備して宮内省民部省大蔵省刑部省兵部省外務省の六省を設置したが、律令体制時代に存在した中務省式部省治部省の三省は復活設置されなかった。しかし、戸籍土木租税駅逓通商鉱山を管轄する民部省出納、秩禄、造幣営繕を管轄する大蔵省の民蔵両省の官吏は、財政及び貿易問題で外国人と接する機会が多く、また職務が実質的合理的思考を必要としたので、1870年(明治3年)4月に太政官が旧朝敵藩の贖罪金免除に大蔵省が反発するなど、しばしば両省の争いが政府内の紛乱の種となった[26]。しかし、後に民部省が大蔵省に統合されると、大蔵省に産業、財政の強大な権力権限が集中し、官僚社会に強固な勢力を築き上げた。

軍事上の改革では民部省大輔兼軍務官副知事の大村益次郎(長州藩士)が「農民を募り親兵」とする国民皆兵による政府軍を作る計画を進め、1873年(明治6年)1月10日、陸軍卿山縣有朋を中心に徴兵令を公布し身分に関わり無く20歳以上の男子に兵役の義務を課した(ただし実質的には、徴兵制度の例外として戸主は徴兵を免除され、主として戸主以外の次三男層や貧農層の子弟が兵役を担ったため、血税一揆が起きた)。兵役は3カ年。軍隊に直接入隊しない者も、17歳から40歳までの男子はことごとく兵籍を与えられ戦争があるときは呼び出されることとなった。男子の国民皆兵の原則である。この原則が1873年(明治6年)から1945年(昭和20年)の第二次世界大戦敗戦までの72年間、人々の生活を支配した。しかし、資産家や富裕層など財産のある者は例外となった[27]。治安面では1874年(明治7年)東京に警視庁を置いた。華族・士族は廃藩置県後も政府から家禄を支給されていたが、1876年(明治9年)金禄公債を支給してそれを年賦で支払うこととし、一切の家禄支給を停止した(秩禄処分)。これにより士族の地位は著しく下がった。

外交では1871年(明治4年)11月12日、江戸幕府政権時に西洋諸国間と結んだ不平等条約改正の予備交渉と欧米先進国の文物の調査を目的に、岩倉具視を全権大使、大久保と木戸を全権副使とする大規模な使節団を欧米諸国に派遣した。この岩倉使節団には伊藤博文山口尚芳ら中堅官吏が随行し、1年9ヶ月にわたって12カ国を訪問した。その目的の一つであった不平等条約の改正は成功しなかったが、政府は西洋文明の実態に触れ日本の近代化を推し進める大きな原動力となった。新政府は、日朝国交正常化のため李氏朝鮮に外交使節を送ったが、李氏朝鮮は徹底的な鎖国政策を採り、大院君政府は何らの回答もよこさなかった。次いで、釜山にある日本公館に対して生活物資搬入妨害するなど、朝鮮側が日本を非難する事件が発生。これらの理由から1873年(明治6年)夏から秋にかけていわゆる「征韓論」の論争が起こり、問題が大きくなっていた。6月12日に初めて閣議の議題に上った[注釈 12][28]。そこで、政府は8月17日の閣議で西郷隆盛の朝鮮派遣使節任命を決めた。征韓議論図 中央左に岩倉具視、中央右に西郷隆盛、右に江藤新平

欧米諸国の朝鮮進出を警戒して、西郷隆盛板垣退助らは朝鮮の開国を迫り征韓論を唱えた。しかし、1873年(明治6年)欧米視察から帰国した岩倉具視・大久保利通らは国内改革の優先を主張してこれに反対した(明治六年政変[注釈 13][29]。西郷・副島・後藤・板垣・江藤ら5参議が下野したのち、江華島事件が勃発して1876年(明治9年)日朝修好条規(江華条約)を結んで朝鮮を開国させた。また、清国に対しては1871年(明治4年)日清修好条規を結んで琉球藩を置き、1874年(明治7年)台湾に出兵した(征台の役)。次いで1879年(明治12年)沖縄県を設置した。ロシアに対しては1875年(明治8年)に樺太・千島交換条約を結び、樺太をロシア領、千島列島を日本領と定めた。また小笠原諸島尖閣諸島竹島も日本の領土とし、日本の領域をいったん確定した。

内国行政では留守政府が1872年(明治5年)2月に田畑永代売買解禁、4月に庄屋名主戸長と改称、7月に全国一般に地券発行を行い、帰国した大久保は1873年(明治6年)に内務省を設置、殖産興業の育成に力を入れてお雇い外国人らを用いて富岡製糸場など多くの官営工場を設立した。財政面では、民部省を統合した大蔵省の大蔵卿・大久保と大蔵大輔井上馨が改正局を設立して、井上直属の部下渋沢栄一を掛長に抜擢し、1871年(明治4年)には各藩の藩札等を廃止して新貨条例を制定、貨幣の単位をに統一した。1872年(明治5年)に国立銀行条例を制定し国立銀行を各地に作らせた。


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