明治
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また、新政府内においても、王政復古時の五藩から、版籍奉還を真っ先に上表した薩長土肥の四藩が主導権を握るようになり[注釈 10]、越前・尾張・芸州の影響力は低下した[18]

版籍奉還直後の7月8日に、職員令により官制を改革し、祭政一致を建前に神祇官太政官を置いて前者を上位とし、太政官に左大臣右大臣大納言参議、顧問として待詔院を置いた。人選は大久保の発案で、三条実美右大臣)、岩倉具視大納言)、副島種臣参議)、前原一誠(参議)、待詔院学士は大久保利通、木戸孝允、板垣退助の3名を選出し、薩長土三藩の維新の功臣を激務から外して木戸派官吏の追い出しを図った[20] が、その後長州派官吏も廣澤真臣を参議に推して対抗し内政の主導権争いが続いた。その後、政体書の規定を以て高官公選の互選も行われ、輔相には三条実美公家)、議定には岩倉具視(公家)、鍋島直正佐賀藩主)、徳大寺実則公卿)、参与には大久保利通(薩摩藩士)、木戸孝允長州藩士)、副島種臣(佐賀藩士)、東久世通禧(公家)、後藤象二郎土佐藩士)、板垣退助(土佐藩士)の10名を選出した。これにより、議定だった諸大名や公卿の多くは免職となり、麝香間祗候か他職に追いやられ、薩長土肥以外の参与も、越前の由利以外は免職となった[21]。9月に入ると王政復古の論功行賞として「賞典禄」を与えた。

新政府が外交方針として開国を決めたことは尊王攘夷派の怒りを買った。明治2年のうちに横井小楠大村益次郎が早々に暗殺され、長州藩においては同年12月1日大楽源太郎率いる奇兵隊遊撃隊等の諸隊が乱を起こし、木戸が鎮圧に当たる始末となり、1870年(明治3年)5月には米沢藩雲井龍雄の反政府陰謀事件が発覚した。1871年(明治4年)には二卿事件久留米藩難事件、征韓を企画した外務権大丞丸山作楽の逮捕事件が勃発した[22]。このように新政府がその基盤を置いた薩長でさえも、洋式装備に統一され実戦的訓練を受けた軍隊を擁しており、成立間もない新政府にとって不気味な存在であった。ましてや静岡藩をはじめとする親藩譜代の諸藩の動静には過敏になっていた。その結果、雲井龍雄処刑の責任者であった広沢が1871年(明治4年)1月9日に暗殺されるなど片翼飛行を始めた。また、国政を薩長土肥が独占していたことも批判を浴び、明治3年7月26日には薩摩藩横山正太郎集議院門前で抗議の切腹を行った。政府内では薩長土肥の対立に加え、太政官民部省大蔵省をめぐって大久保と木戸が対立し、薩長間で抗争が繰り広げられており、世情は不安定だった[23]

こうした中で、政府は9月に「藩制」を公布し、藩への統制をさらに強めた[24]。藩に共通する職制、財政の規定を示し、重要な賞罰は政府の許可を得ることや、藩士身分の単純化、藩債、藩札の整理を命じた。他方、政府への不満を抑えるため、11月29日、藩地に帰郷した島津久光と、藩政改革を通して薩摩藩の軍備強化に努め、全国から集結した士族約1万2千人の兵士軍団を束ねて政府を無言で威圧していた西郷隆盛に上京するよう説得するため、岩倉具視が勅使として、大久保利通木戸孝允が随員として鹿児島に向かい、西郷の受諾を得てようやく政権を安定させた[25]

こうして世情が安定すると、政府は1871年(明治4年)7月にまず薩長土の3藩から御親兵を募って中央の軍事力を固め、次いで一挙に廃藩置県を断行した。全国の261藩は廃止され、3302に変わり、日本は中央集権的統一国家となった。藩知事士族は保障され、藩債を肩代わりした。身分制度の改革を行い、大名公家華族とする華族制度(日本国憲法が施行されるまで存在した、西洋式に倣った日本の貴族制度)の創設と、武士身分を士族として、農工商民(百姓町人)などを平民とし、日本人大和民族)は皆「国民」(明治憲法下では「臣民」とも呼ばれた)とされ、日本国民全員に苗字の公称を認めた四民(士農工商)平等政策を取った。戸籍法を制定し、華族・士族の散髪、脱刀並びに華士族平民間通婚を自由にし、田畑勝手作りを認め、府県官制制定を行い華士族の農工商従事を許可した。なおこれらとは区別して、天皇と血縁関係のある皇族皇室構成員)の地位もまた定められた。1871年(明治4年)には、いわゆる解放令によってこれまでえたひにんとされていた賎民の人々も平民に編入された[注釈 11]。ただし、その後も部落問題として余韻は残したままとなった。
明治国家の形成

1869年(明治2年)に、律令制度の行政機構を復活させ、役所機構を整備して宮内省民部省大蔵省刑部省兵部省外務省の六省を設置したが、律令体制時代に存在した中務省式部省治部省の三省は復活設置されなかった。しかし、戸籍土木租税駅逓通商鉱山を管轄する民部省出納、秩禄、造幣営繕を管轄する大蔵省の民蔵両省の官吏は、財政及び貿易問題で外国人と接する機会が多く、また職務が実質的合理的思考を必要としたので、1870年(明治3年)4月に太政官が旧朝敵藩の贖罪金免除に大蔵省が反発するなど、しばしば両省の争いが政府内の紛乱の種となった[26]。しかし、後に民部省が大蔵省に統合されると、大蔵省に産業、財政の強大な権力権限が集中し、官僚社会に強固な勢力を築き上げた。

軍事上の改革では民部省大輔兼軍務官副知事の大村益次郎(長州藩士)が「農民を募り親兵」とする国民皆兵による政府軍を作る計画を進め、1873年(明治6年)1月10日、陸軍卿山縣有朋を中心に徴兵令を公布し身分に関わり無く20歳以上の男子に兵役の義務を課した(ただし実質的には、徴兵制度の例外として戸主は徴兵を免除され、主として戸主以外の次三男層や貧農層の子弟が兵役を担ったため、血税一揆が起きた)。兵役は3カ年。軍隊に直接入隊しない者も、17歳から40歳までの男子はことごとく兵籍を与えられ戦争があるときは呼び出されることとなった。男子の国民皆兵の原則である。この原則が1873年(明治6年)から1945年(昭和20年)の第二次世界大戦敗戦までの72年間、人々の生活を支配した。しかし、資産家や富裕層など財産のある者は例外となった[27]。治安面では1874年(明治7年)東京に警視庁を置いた。華族・士族は廃藩置県後も政府から家禄を支給されていたが、1876年(明治9年)金禄公債を支給してそれを年賦で支払うこととし、一切の家禄支給を停止した(秩禄処分)。


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