明治
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1868年10月23日慶応4年9月8日)- 皇太子睦仁親王(後の明治天皇)の即位による改元

ただし、改元の詔書には「吉凶之象兆ニ隨ヒ」(吉凶の象兆に随ひ)「改慶應四年爲明治元年」(慶応4年を改めて明治元年と為す)とあり、公式上は慶応4年元日に遡って明治元年とされた(立年改元)。また、一世一元の詔も併せて出され、天皇在位中の改元は行わないものとした。

『元号 全247総覧』[3]によると、松平春嶽に新元号の考案が委ねられ、複数の案を出し、最終的に明治天皇自身によるくじ引きで「明治」が選定されたとされる。


1912年(明治45年)7月30日1873年〈明治6年〉に太陽暦施行)- 明治天皇の崩御と皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の践祚(即位)により、大正(たいしょう)と改元。同日施行され、大正元年7月30日となった。

典拠

「聖人南面而聴天下、嚮明而治

→.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}聖人(せいじん)南面(なむめん)して天下(てんか)を聴(き)き、明(めい)に嚮(むか)ひて治(おさ)む」

?『易経

「聖人南面して天下を聴き、明に嚮ひて治む」というこの言葉は、過去の改元の際に江戸時代だけで8回、計10回(「正長」「長享」「慶安」「承応」「天和」「正徳」「元文」「嘉永」「文久」「元治」改元時[4])候補として勘案されているが、通算11度目にして採用された。

岩倉具視松平慶永に命じ、菅原家から上がった佳なる勘文をにして、宮中賢所で天皇が自ら抽選した[5]

「聖人が北極星のように顔を南に向けてとどまることを知れば、天下は明るい方向に向かって治まる」という意味である[6]
新暦の実施詳細は「グレゴリオ暦」を参照

1873年(明治6年)より、日本の暦改暦され、新暦太陽暦を採用した。従来の暦は太陰太陽暦に基づく天保暦で、以後、日本で単に旧暦と言えば天保暦を指す[注釈 3]

改暦は、具体的には、天保暦(旧暦)の明治5年12月2日の翌日を、新暦の明治6年1月1日とすることで実施した。これにより、西暦(グレゴリオ暦)と和暦の日付が一致することとなった[注釈 4]

日付対応表和暦西暦ユリウス通日
天保暦
旧暦)現行暦[注釈 5]
新暦ユリウス暦
(旧暦)グレゴリオ暦
(新暦)
明治5年12月2日なし1872年12月19日(火曜日)1872年12月31日(火曜日)2405159
12月3日)明治6年1月1日(水曜日)1872年12月20日(水曜日)1873年1月1日(水曜日)2405160
12月4日)明治6年1月2日(木曜日)1872年12月21日(木曜日)1873年1月2日(木曜日)2405161

明治時代

明治天皇が即位し、新政府は天皇を中心とした新しい国家体制を築くことを目指して江戸東京と改め、天皇が東京に行幸し、明治2年(1869年)に政府機能が京都から東京に移された(東京奠都)。この明治天皇の治世が明治時代(めいじじだい)と呼ばれている。明治政府の樹立に大きな役割を果たした薩長土肥四藩(現在の鹿児島県山口県高知県佐賀県長崎県の一部)は新政府でも強大な権力を握った。なお、幕末には薩長と共に尊王攘夷運動を主導してきた水戸藩は「天狗党」と「諸生党」の藩内抗争で人材が失われ、明治新政府ではめぼしい人材は皆無となった。

尊皇思想に基づき、「天皇は親政を行い人民を直接統治する」とした。しかし、1890年(明治23年)に大日本帝国憲法(明治憲法)が施行されるまでは、明治天皇は青年期であり、憲政下となっても立憲君主制国家の成立により、三職制・太政官制や内閣官制の導入などで、天皇以外にも薩摩藩長州藩の出身者が政治の実権を握っていた(藩閥政治)。明治改元の際には、朝中国を模倣して一世一元の制を定め、天皇の名(厳密には追号)として元号を用い、それまでの陰陽五行思想的改元を廃止した(以降、現在の令和に至るまでの改元はすべて代始改元)。

この明治時代は、欧米列強植民地化を免れるために近代化を推進した時代であり、世界史的に見れば、日本の産業革命時代である。西洋化と近代化幕末から始まって明治年間で達成されたことから、「幕末・明治」と括られることも多い。なお、「幕末・明治」という括りは、不平等条約の締結(1854年安政元年〉)から完全撤廃(1911年〈明治44年〉)までの時代とほぼ一致する。中央集権的な王政復古の過程から「王政維新」ともいわれる。また、1870年代(明治初期)は文明開化を略し「開化期」とも呼ばれている。
明治維新「明治維新」も参照大政奉還

1867年(慶応3年)、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜が朝廷に対し大政奉還を行った。これにより、朝廷は玉松操大久保利通らが作成した「王政復古の大号令」を宣言。薩摩越前土佐尾張芸州の五藩がこのクーデターに与した。1868年(明治元年)1月、京都付近において薩摩・長州両藩兵を中心とする新政府軍と旧幕臣や会津・桑名藩兵を中心とする旧幕府軍との間に武力衝突が起こった(鳥羽・伏見の戦い)。これに勝利を収めた新政府軍は慶喜を朝敵として追討し、二条城に退去していた会津藩桑名藩旗本は辞官納地の命令により、慶喜と共に大坂城に退いた。慶喜は薩摩藩の罪状を弾劾した「討薩表」を提出して京都に進軍したが朝敵となって討伐され、大坂から軍艦開陽丸で脱出し、江戸城へ逃亡。新政府軍は江戸へ軍を進めた。大久保一翁山岡鉄舟の尽力もあって新政府軍を代表する西郷隆盛と旧幕府軍を代表する勝海舟との交渉が成功し、同年4月11日(新暦5月3日)、江戸は戦火を交えることなく新政府軍により占領された(江戸開城)。東北諸藩も奥羽越列藩同盟を結成して会津藩を助けたが次々に新政府軍に敗れ、7月29日越後長岡城落城、同年9月22日には激しい戦闘の末に会津若松城が落城して会津藩も降伏した。次いで庄内藩が降伏すると、1869年6月27日(明治2年5月18日)には旧幕府海軍を率いて箱館を占領していた榎本武揚らが五稜郭の戦いに敗れて降伏し、ここに戊辰戦争は終結した。


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