明治
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この明治時代は、欧米列強植民地化を免れるために近代化を推進した時代であり、世界史的に見れば、日本の産業革命時代である。西洋化と近代化幕末から始まって明治年間で達成されたことから、「幕末・明治」と括られることも多い。なお、「幕末・明治」という括りは、不平等条約の締結(1854年安政元年〉)から完全撤廃(1911年〈明治44年〉)までの時代とほぼ一致する。中央集権的な王政復古の過程から「王政維新」ともいわれる。また、1870年代(明治初期)は文明開化を略し「開化期」とも呼ばれている。
明治維新「明治維新」も参照大政奉還

1867年(慶応3年)、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜が朝廷に対し大政奉還を行った。これにより、朝廷は玉松操大久保利通らが作成した「王政復古の大号令」を宣言。薩摩越前土佐尾張芸州の五藩がこのクーデターに与した。1868年(明治元年)1月、京都付近において薩摩・長州両藩兵を中心とする新政府軍と旧幕臣や会津・桑名藩兵を中心とする旧幕府軍との間に武力衝突が起こった(鳥羽・伏見の戦い)。これに勝利を収めた新政府軍は慶喜を朝敵として追討し、二条城に退去していた会津藩桑名藩旗本は辞官納地の命令により、慶喜と共に大坂城に退いた。慶喜は薩摩藩の罪状を弾劾した「討薩表」を提出して京都に進軍したが朝敵となって討伐され、大坂から軍艦開陽丸で脱出し、江戸城へ逃亡。新政府軍は江戸へ軍を進めた。大久保一翁山岡鉄舟の尽力もあって新政府軍を代表する西郷隆盛と旧幕府軍を代表する勝海舟との交渉が成功し、同年4月11日(新暦5月3日)、江戸は戦火を交えることなく新政府軍により占領された(江戸開城)。東北諸藩も奥羽越列藩同盟を結成して会津藩を助けたが次々に新政府軍に敗れ、7月29日越後長岡城落城、同年9月22日には激しい戦闘の末に会津若松城が落城して会津藩も降伏した。次いで庄内藩が降伏すると、1869年6月27日(明治2年5月18日)には旧幕府海軍を率いて箱館を占領していた榎本武揚らが五稜郭の戦いに敗れて降伏し、ここに戊辰戦争は終結した。

賞典禄を受けた「四賢侯」を中心とする討幕大名および「維新の十傑」に代表される下級藩士や三条実美東久世通禧七卿落ち事件に連座していた開明派の公家を中心として発足した新政府は封建的支配制度を解体し、天皇を中心とした中央集権的国家体制の基礎を固めていった。幕府や摂政関白征夷大将軍内覧議奏京都守護職所司代などは廃止され、それに代わり九条家に太政官代が置かれ、総裁有栖川宮熾仁親王議定参与の三職および神祇・内国・外国・陸海軍・会計・刑法・制度の行政七科、徴士・貢士が置かれたが、下級藩士の実力者達は公家や雄藩の大名たちと並んで新政府に加わった。薩摩藩土佐藩安芸藩尾張藩越前藩五藩軍隊の京都御所警備の下、成立当日の夜の小御所会議で激論の末、慶喜に内大臣の官職と領地の返上(辞官納地)を命じることを決めた。ここに700年の武家政治の諸法度は終焉した。

戊辰戦争のさなかの1868年(慶応4年)3月には、由利公正福岡孝弟の起草により天皇が群臣を従えて神々に誓うという形式で「五箇条の御誓文」を定め、公議輿論の尊重、開国親和など新しい政治理念の基本を宣言した。翌日に「五榜の掲示」を掲げた。その内容は五倫の道(君臣・父子・夫婦・長幼・朋友の道徳)を説き、徒党・強訴・キリスト教を禁止するなど旧幕府の政策を引き継いだものであったが、数年以内に廃止された。閏4月21日には五箇条の御誓文を受けて「政体書」を公布。太政官の下に上局と下局からなる二院制の議定官が置かれ、上局は議定参与から、下局は各藩と藩から送られた貢士で構成した[注釈 6]。次いで政府は太政官神祇官と呼ぶ官吏制度を整えた。天皇親政の下に、公家や藩主に並んで参与に任じられた9藩士、小松帯刀薩摩藩)・大久保利通(薩摩藩)・木戸孝允長州藩)・広沢真臣(長州藩)・後藤象二郎土佐藩)・福岡孝弟(土佐藩)・副島種臣佐賀藩)・横井小楠熊本藩)・由利公正福井藩)の9名は「朝臣」となり、藩主から独立した地位を得た[7]


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