明治維新
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やがてこれは「東亜の維新」でもあるとされた[13]。他方、政治思想史研究者橋川文三[80]、思想史家の渡辺京二[81]は、西郷隆盛らの反乱を「第二維新革命」の遂行と挫折であったと位置づけ、昭和維新の首唱者である北一輝を挫折した維新革命の継承者であるとみなした[75]

昭和初期には、大衆小説や古老の体験談・回顧談などの「明治維新物」ブームもおこった[13]
昭和維新詳細は「昭和維新」を参照

1920-30年代には、政党財閥を批判して天皇親政を主張する国家革新運動「昭和維新(皇道維新)」が起こった[82]。昭和維新の主張者は、明治維新の継承を唱えた[82]。例えば1928年(昭和3)の海軍青年将校藤井斉らの王師会綱領に「明治維新ヲ完成シ」とみえ、五・一五事件(1932)の檄文にも「維新日本ヲ建設セヨ」と書かれた[82]1936年には二・二六事件が起こった。
評価と研究
大正・昭和

維新の政治史は、藤井甚太郎井野辺茂雄らによって実証研究が進展し、維新史料編纂会の『維新史』 (5巻)などで集大成が図られたほか、維新の社会経済史は1920年代より、幸田成友本庄栄治郎土屋喬雄らが実証研究をなした[83]
マルクス主義歴史学
日本資本主義論争

昭和初期の代表的な維新論として、マルクス主義者によるものがある。野呂栄太郎は「日本資本主義発達史」(1927年)で明治維新を「ブルジョワ革命としての明治革命」とし、「資本家と資本家的地主とを支配者たる地位に即かしむるための強力的社会変革」と規定したが、コミンテルンの「日本問題に関する決議」により野呂はこの説を放棄した[72]。しかし、その後山田盛太郎、野呂栄太郎、服部之総羽仁五郎らは『日本資本主義発達史講座』(1932-1933年、岩波書店)をまとめた。これに対して、労農派が批判し、同講座の執筆陣が講座派とされて、日本資本主義論争(1933年-1937年)が起こった[84]

日本共産党の活動方針を巡って講座派労農派はそれぞれ二段階革命論一段階革命論を唱えた。労農派は明治維新により日本は資本主義段階に突入したと考え、マルクス主義唯物史観の公式通りただちに社会主義革命を目指すべきだと主張したのに対して、講座派は明治維新は不完全な民主主義革命であり、日本は未だ半封建的な段階にあるとし、まずブルジョワ民主主義革命を目指し、その先に社会主義革命はあるという二段階革命論を主張した。1934年に特別高等警察による野呂栄太郎が拷問死し、さらに1936年にコム・アカデミー事件での講座派一斉検挙により壊滅した。1937年人民戦線事件労農派も一斉検挙された。

終戦後講座派は復活し、羽仁五郎は『明治維新』(岩波新書)、『明治維新之研究』(岩波書店)を刊行した。
ハーバート・ノーマン

羽仁と親しくしていたカナダ外交官・日本史学者(戦時中は太平洋問題調査会研究員[85])のハーバート・ノーマンは、講座派の影響を受けており、『日本における近代国家の成立』(1940、邦訳1947年)で、明治維新の主体は下級武士とブルジョワ的豪農の同盟であったが、維新後、武士は豪農を裏切り、工業化のために課税を強化したとした[86]。ノーマンによれば、明治維新は農民を犠牲にして資本の蓄積と集中が遂行された「上からの変革」であり、これは「絶対主義国家の力」によるもので、新政府の「武断官僚」は専制権力を手際良く利用したと説明した[87]。ノーマンは、徳川幕府が封建制の廃止や政治改革を実現できなかったのに対して、明治政府は、工業、法典、教育などの分野で近代化を成し遂げたが、そうした近代化と、その政府が権威主義体制であったことととは矛盾するわけではないという[88]。ノーマンは1953年の序文で、「明治政府をむき出しの絶対主義と規定することはたしかに過度の単純化であり、あるいは歪曲である」が、明治政府は廷臣、官僚、軍人、特権的企業家からなる寡頭権力者による、「立憲制度の大礼服に飾られた絶対主義であった」と主張した[88]。同書は日本で大きな反響を呼んだ[89]
遠山茂樹

マルクス主義歴史学の立場から、長州藩を維新の主体の典型とみなした上で明治維新を天皇制絶対主義の成立とみなす遠山茂樹『明治維新』(1951年、岩波書店)が主流の地位を占めた[90]


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