明治維新
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維新政府はみずからの正当性として「王政復古」論を主張し、『大政紀要』(宮内省系)や『復古記』(太政官系)という形で公表した[13]

これに対して、戊辰戦争のさなかの1868年8月に出された小洲処士の《復古論》は、維新の変革は草莽(民間)から起ったとする「草莽復古」を論じた[65]

明六社の明治啓蒙思想家は維新の開明性・進歩性を強調した[13]

福沢諭吉は『文明論之概略』(明治8年、1875年)において、幕末から明治の改革を「王政一新」と呼び、尊王や攘夷が幕藩体制を倒したという俗論を批判し、江戸幕府下における「門閥」を基盤とした「専制の暴政」に対する人々の不満が内実にあったからこそ、単に政権が交替するだけではなく、武士身分の解体としての廃藩置県まで到達したとして、人々の智徳(知識と道徳)の進歩によって歴史が動いたと評し[66]

幕臣出身の在野史家田口卯吉は22歳で『日本開化小史』(明治10-15)を自費出版し、勤王史観から離れて維新を評価した[67]

イタリアでジュゼッペ・ガリバルディ軍のスラヴ義勇軍副官として転戦したり、バクーニンの支援者でもあったロシア人革命家レフ・メーチニコフは、パリ・コミューン敗北後のパリで日本に革命が起こったという報に接し、在仏していた大山巌の紹介で1874年に日本に赴任したあと1881年(明治14)に執筆した著書で明治維新を「歴史上我々が知りうる最も完全かつラジカルな革命」と評価した[68][69]。しかし、列強の偽善的政策と国内の支配者集団の権勢欲のために道は険しいと警鐘を鳴らした[69]

藤田茂吉『文明東漸史』(1884年)は、蛮社の獄を詳述し、1887年には島田三郎の井伊直弼伝『開国始末』が刊行された[64]

小中村義象は『大政三遷史』明治21年(1888年)で、大化改新建武の新政、明治維新を大政三遷とする[70]

勝海舟の『海軍歴史』『陸軍歴史』(1889)を、野口勝一が『維新史料』(1887―1896)を刊行。明治20年代初頭に維新史ブームが生まれた[64]

徳富蘇峰民友社では、竹越与三郎が『新日本史』(明治24年-明治25年[71])を刊行し、明治維新の原因を勤王論による政治運動と説く歴史観や、外国の圧力を維新の原因とみる歴史観を批判し、徳川時代に芽生えていた社会全体の潮流、社会的革命があったからこそ、「代朝革命」が起こったと論じた[72]。竹越は、明治維新を、イギリスのような「復古的革命」、フランスやアメリカのような「理想的革命」とも異なる「乱世的革命(アナルキカル・レボリューション)」と位置づけながら、新政府について「維新の大目的を失忘して、邪径に走らんとす」と批判した[72][73]

徳富蘇峰も自ら『吉田松陰』(1893年)を、さらに『近世日本国民史』で明治維新を論じた[64]。蘇峰は、旧幕の外国方で働いた福地源一郎に『幕府衰亡論』(1892) 『幕末政治家』(1898)を依頼した[64]

日本を社会民主主義の国とすることを夢見ていた若い頃の北一輝は、明治39年(1906年)の『国体論及び純正社会主義』で、ヨーロッパの革命が新社会の理想を描いた計画的革命であったのに対して、「維新革命の民主主義」は「無計画の暴発」であり、「維新革命は戊辰戦役において貴族主義に対する破壊を為したるのみ」と批判し[74]、つまり、自由民権運動の23年間の運動が維新後に民主主義の建設を行ったのは自由民権運動であると論じた[6]。また、北は竹越與三郎から影響を受けており、特に竹越の『二千五百年史』(1896)における大化の改新を範型とした維新観に深い影響を受けた[75]。竹越は、大化の改新を「空前絶後の国体変革」として、それ以前の社会は天皇の一族が、中臣氏忌部氏物部氏大伴氏蘇我氏などの諸族を統治する族長であり、直接民を統治していたわけではなく、「国家」や「国民」はなく、「天皇は国家の君主にあらずして、諸族の長たるに過ぎず」という状態であった[76]。大化の改新によって、貴族豪族の私民私領が廃され、奴隷、公民、土地すべてが国家に属すると定められ、族長の集議所は政府となり、族長政体を官制組織となり、天皇は人民を統治する君主となったとし、「神武以来一千三百年、日本の国民初めて成り、王制初めて生じ、国家初めて現出したるなり」と論じた[75][76]。北は、「維新革命は大化の王制に復古したるものにあらず。大化の革命に於て理想たりし儒教の公民国家が一千三百年の長き進化の後に於て漸くに実現せられたるものなり」と評した[75]。しかし、天智天皇の死とともに公民国家の理想は去り、家長国となったと批判した[75]。北は君主主権でなく、国家主権の国家を理想とした[75]。北はその後、中国の辛亥革命に身を投じ、『日本改造法案大綱』(大正12年(1923))を書いて昭和維新に大きな影響を与えた。


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