明治維新
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安政5年にはコレラも流行し、江戸だけで死者が3万人[36]から30万人に及んだ[41]。さらに文久2年(1862年)のコレラ流行では安政5年の数倍の死者が出た[42]。文久2年にははしかも大流行し、江戸だけで239,862人の死者が出た[43]。こうした度重なる疫病による社会不安が徳川幕府崩壊の要因の一つともなった[43]
略年表「幕末の年表」および「明治#年表」も参照

※明治5年(1872)のグレゴリオ暦への改暦までの日本は太陰太陽暦(天保暦)を採用していたため、西暦とはずれがあることに留意。また、慶応4年の一世一元の制による明治への改元までは災異改元や立年改元(改元年の元旦に遡及して新元号を使用)などもある[44][45]

天保年間(1831-45)

天保4年(1833) - 天保の大飢饉(?天保10)

天保7年(1836) - 天保騒動

天保8年(1837)大塩平八郎の乱

天保10年(1839) - 蛮社の獄

天保12年(1841) - 天保の改革

天保13年(1842) - アヘン戦争の情報を得た幕府は異国船打払令を廃止して薪水給与令発布[46]


弘化年間(1845-48)

嘉永年間(1848-1855)

嘉永6年(1853) - 黒船来航

嘉永7年(1854) - 3月日米和親条約、6月伊賀上野地震、8月日英和親条約、11月、安政東海南海地震を受けて災異改元。安政元年11月、豊予海峡地震。12月日露和親条約


安政年間(1855-1860)

安政2年(1855年) - 10月安政江戸地震、12月日蘭和親条約

安政3年(1856年) - 7月安政八戸沖地震、8月江戸大風災

安政5年(1858年) - 日米修好通商条約、続けてオランダ、ロシア、英国、フランスも締結(安政五カ国条約)。安政の大獄コレラ流行

安政7年(1860年) - 桜田門外の変


万延年間(1860-1861)

文久年間(1861-1864)

文久2年 - 文久の改革生麦事件はしか流行

文久3年 - 薩英戦争八月十八日の政変下関戦争(文久3-4)


元治年間(1864-1865)

元治元年 - 禁門の変四国艦隊下関砲撃(下関戦争)、第一次長州征討


慶応年間(1865-1868)

慶応元年(1865) - 兵庫開港要求事件

慶応2年(1866) - 薩長同盟、第二次長州征討

慶応3年(1867) - 四侯会議大政奉還上奏 - 王政復古の大号令

慶応4年(1868) - 1月、鳥羽・伏見の戦い戊辰戦争開始。4月、江戸開城会津戦争開始。7月、上野戦争秋田戦争五箇条の御誓文政体書発布、東京奠都旧9月8日1868年10月23日)、一世一元の制による明治への改元明治元年[47]9月22日、会津戦争終結。


明治年間(1868-1912)

明治2年(1869) - 5月、箱館戦争により戊辰戦争終結。6月、版籍奉還 - 宮内省民部省大蔵省刑部省兵部省外務省を設置。族称・平民の設置。

明治4年(1871) - 廃藩置県

明治5年(1872) - 人身売買禁止令国立銀行条例。12月、太陰太陽暦からグレゴリオ暦へ改暦

明治6年(1873) - 明治六年政変敵討禁止令

明治7年(1874) - 民撰議院設立建白書佐賀の乱台湾出兵

明治9年(1876) - 秩禄処分

明治10年(1877)- 西南戦争

明治12年(1879)- 琉球処分

明治14年(1881)- 国会開設の詔

明治18年(1885) - 太政官制廃止、内閣制度発足。

明治22年(1889)- 大日本帝国憲法発布。

明治23年(1890)-第1回帝国議会


「御一新」の理念
五箇条の御誓文詳細は「五箇条の御誓文」を参照幟仁親王が揮毫した御誓文の原本「大政奉還図」 邨田丹陵

江戸幕府による大政奉還を受け、王政復古によって発足した明治新政府の方針は、天皇親政(旧来の幕府・摂関などの廃止)を基本とし、諸外国(主に欧米列強国を指す)に追いつくための改革を模索することであった。その方針は、翌慶応4年(1868年)3月14日に公布された五箇条の御誓文で具体的に明文化されることになる。合議体制、官民一体での国家形成、旧習の打破、世界列国と伍する実力の涵養などである。なお、この『五箇条の御誓文』の起草者・監修者は「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」を全く新たに入れた総裁局顧問・木戸孝允長州藩)であるが、その前段階の『会盟』五箇条の起草者は参与・福岡孝弟土佐藩)であり、更にその前段階の『議事之体大意』五箇条の起草者は参与・由利公正越前藩)である。

その当時はまだ戊辰戦争のさなかであり、新政府は日本統一後の国是を内外に呈示する必要があった。そのため、御誓文が、諸大名や、諸外国を意識して明治天皇が百官を率いて、皇祖神に誓いを立てるという形式で出されたのである。さらに国民に対しては、同日に天皇の御名で「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」が告示され、天皇自身が今後善政をしき、大いに国威を輝かすので、国民も旧来の陋習から脱却するように説かれている。

これらの内容は、新政府の内政や外交に反映されて具体化されていくとともに、思想的には自由民権運動の理想とされていく。


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