明治維新
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弘化4年(1847年)には長野で善光寺地震が起き、山崩れでせき止め湖決壊などのため、1万人を超す犠牲者が出た[36]ペリー来航直前の嘉永6年(1853年)3月に小田原地震M6.7、震度7、江戸の震度4-5)が起きた。翌年日米和親条約が締結されると、伊賀上野地震(M7.3)が発生し、以降、13回の地震が連発する安政の大地震が発生した[36]。嘉永7年には、南海トラフ巨大地震である安政東海地震安政南海地震(M8.4、震度7)、豊予海峡地震(M7.4、震度6)が発生し、幕府は災異改元安政に改元するが、安政2年に飛騨地震M7.5)、陸前地震、安政江戸地震(M6.9-7.4、推定死者1万人)が発生した[36]。安政3年にも安政3年の大風災で台風と高潮が江戸を襲い(推定死者10万人)[36]安政八戸沖地震(M6.9-8.0)が発生した。安政4年に芸予地震(M7.3)が発生、安政5年(1858年)の飛越地震(M7.1、震度7)では鳶山崩れも併発し、常願寺川のせき止め湖が二度決壊して下流に大被害を出した[36]

安政5年にはコレラも流行し、江戸だけで死者が3万人[36]から30万人に及んだ[41]。さらに文久2年(1862年)のコレラ流行では安政5年の数倍の死者が出た[42]。文久2年にははしかも大流行し、江戸だけで239,862人の死者が出た[43]。こうした度重なる疫病による社会不安が徳川幕府崩壊の要因の一つともなった[43]
略年表「幕末の年表」および「明治#年表」も参照

※明治5年(1872)のグレゴリオ暦への改暦までの日本は太陰太陽暦(天保暦)を採用していたため、西暦とはずれがあることに留意。また、慶応4年の一世一元の制による明治への改元までは災異改元や立年改元(改元年の元旦に遡及して新元号を使用)などもある[44][45]

天保年間(1831-45)

天保4年(1833) - 天保の大飢饉(?天保10)

天保7年(1836) - 天保騒動

天保8年(1837)大塩平八郎の乱

天保10年(1839) - 蛮社の獄

天保12年(1841) - 天保の改革

天保13年(1842) - アヘン戦争の情報を得た幕府は異国船打払令を廃止して薪水給与令発布[46]


弘化年間(1845-48)

嘉永年間(1848-1855)

嘉永6年(1853) - 黒船来航

嘉永7年(1854) - 3月日米和親条約、6月伊賀上野地震、8月日英和親条約、11月、安政東海南海地震を受けて災異改元。安政元年11月、豊予海峡地震。12月日露和親条約


安政年間(1855-1860)

安政2年(1855年) - 10月安政江戸地震、12月日蘭和親条約

安政3年(1856年) - 7月安政八戸沖地震、8月江戸大風災

安政5年(1858年) - 日米修好通商条約、続けてオランダ、ロシア、英国、フランスも締結(安政五カ国条約)。安政の大獄コレラ流行

安政7年(1860年) - 桜田門外の変


万延年間(1860-1861)

文久年間(1861-1864)

文久2年 - 文久の改革生麦事件はしか流行

文久3年 - 薩英戦争八月十八日の政変下関戦争(文久3-4)


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