明治維新
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保護関税政策を実施した[30]
(付記:イギリスの税収は消費税と関税で60%、地租は5%)税収の60-92%が地租に依存。関税収入は4-6%。
日本は1911年の条約改正まで関税自主権がなかった。
外国資本率フランス、ベルギー、ドイツ、イギリスなどの外国資本率が1900年で83.7%を占めた。外国資本率は1900年でわずか9.5%。
日本では商人資本が重要な地位を占め、東京-横浜鉄道経営権をポートマンから取り戻したり、日本坑法で外国人の鉱山所有権を禁止した[30]

イタリアでの改革の主導権は大土地貴族と大ブルジョワジーであったため、農業革命、土地改革が欠如していた。また農工保護関税によって、北部のブルジョワジーと南部の大土地所有が温存され、南北の格差構造も発生した[30]

ロシア、イタリア、日本の共通点として、集権的かつ権威主義的な国家体制のもとで資本主義的工業化が急速に推進され、先進地域と遅れた地域という構造を残したこと、民衆の政治的権利が抑圧されたことなどがある[30]

中村はイタリアのアルベルト憲法、ロシア帝国憲法との比較を踏まえ、明治日本の憲法は、絶対主義的性格と立憲主義的性格を併せ持つ「絶対主義的立憲制」と規定した[166]
非ヨーロッパ地域における近代化との比較

明治維新の諸改革は、新たな制度で生じた矛盾をいくらか孕みながらも、おおむね成功を収め、短期間で立憲制度を達成し、富国強兵が推進された。その評価は日清戦争日露戦争における勝利により飛躍的に高まり、諸外国からも感嘆・驚異の目で見られるようになった。特にアジア諸国では明治維新を模範として改革や独立運動を行おうとする動きが盛んになる。孫文も日本亡命時には『明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である』との言葉を犬養毅へ送っている[167]

ロシアを含むアジアでの近代化革命としては、朝鮮における壬午事変甲申政変や清における戊戌の変法オスマン帝国におけるタンジマートの失敗、長続きしなかったイランイラン立憲革命ロシア帝国ヴィッテ改革ストルイピン改革などが典型である(朝鮮の改革運動については金玉均など、清の改革については光緒帝黄遵憲なども参照)。しかしいずれも確実な成功を収めたものとまではいえなかった。

一定の成功を収めた例としては、パラグアイカルロス・アントニオ・ロペス大統領による改革、タイチャクリー改革トルコアタテュルク主義エジプトエジプト革命メキシコベニート・フアレス改革が挙げられる。

日本は明治維新によって列強と化したことにより、アジア諸国では数少ない植民地にならなかった国となった。明治維新は欧米列強に抑圧されたアジア諸国にとって近代化革命の模範ともなった。やがて日本自身が列強側の国家として、帝国主義的な領土・権益獲得を行う立場となったが、それが行使されたのは台湾や朝鮮、中国の一部という限られたものに終わり、イギリスやアメリカ、オランダなどのように本土から遠く離れた地を植民地支配下に置くようなことはなかった。

一方、ほとんどのアジア諸国で挫折ないし不可能だった近代化革命が、なぜ日本においてのみ成功したのかについても近年研究が盛んとなっている。孫文やスカルノマハティール・ビン・モハマド毛沢東をはじめ、その他アジアの指導者はほぼ例外なく明治維新に何らかの関心を持っており、その歴史的価値についての問い直しが盛んとなっている。
エジプトとの比較論

中東社会学者の山口直彦は、エジプト史での比較を論じている。

エジプトの初代大統領ナセルは、『アラブ連合共和国国民憲章』の中で「エジプトがその眠りから醒めた時、近代日本は進歩に向かって歩み始めた。日本が着実な歩みを続けることに成功したのと対照的に、個人的な冒険によってエジプトの覚醒は妨げられ、悲しむべき弊害を伴った挫折がもたらされた」と記している[168]

エジプトで失敗した近代化が日本で成功した理由について、明治の日本は教育制度が整っていた上に、「有司専制」などという批判もありつつも、議会や民権政党、マスコミなど政府批判勢力が常に存在して行政のチェック機能が働いていたのに対し、エジプトにはこれがなかったため、君主が個人的な私情や私欲に突き進みやすかったことがあるという。明治政府は外債に慎重で返済能力を越えない現実的な範囲に留めてきたが、エジプトは君主の独走で計算もなく法外な利息の外債に頼り続け、その結果、財政破綻と植民地化を招いたことが指摘されている[168]

一方エジプト革命から半世紀以上前にオラービー革命を起こしたアフマド・オラービーは、近代化改革が日本で成功した理由について、日本の地理的条件の良さが背景にあると分析していたという。具体的には幕末から明治初期の日本は生糸しか主要産業がなく、イギリスやフランスにとっての日本の価値は大市場であるの付属品、あるいは太平洋進出のための薪炭・水の補給地でしかなく、スエズ運河を有するエジプトに比べて重要度が低かったことがあるという[169]
東アジア・東南アジアの開発独裁と明治維新の違い


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