明治維新
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また農工保護関税によって、北部のブルジョワジーと南部の大土地所有が温存され、南北の格差構造も発生した[30]

ロシア、イタリア、日本の共通点として、集権的かつ権威主義的な国家体制のもとで資本主義的工業化が急速に推進され、先進地域と遅れた地域という構造を残したこと、民衆の政治的権利が抑圧されたことなどがある[30]

中村はイタリアのアルベルト憲法、ロシア帝国憲法との比較を踏まえ、明治日本の憲法は、絶対主義的性格と立憲主義的性格を併せ持つ「絶対主義的立憲制」と規定した[166]
非ヨーロッパ地域における近代化との比較

明治維新の諸改革は、新たな制度で生じた矛盾をいくらか孕みながらも、おおむね成功を収め、短期間で立憲制度を達成し、富国強兵が推進された。その評価は日清戦争日露戦争における勝利により飛躍的に高まり、諸外国からも感嘆・驚異の目で見られるようになった。特にアジア諸国では明治維新を模範として改革や独立運動を行おうとする動きが盛んになる。孫文も日本亡命時には『明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である』との言葉を犬養毅へ送っている[167]

ロシアを含むアジアでの近代化革命としては、朝鮮における壬午事変甲申政変や清における戊戌の変法オスマン帝国におけるタンジマートの失敗、長続きしなかったイランイラン立憲革命ロシア帝国ヴィッテ改革ストルイピン改革などが典型である(朝鮮の改革運動については金玉均など、清の改革については光緒帝黄遵憲なども参照)。しかしいずれも確実な成功を収めたものとまではいえなかった。

一定の成功を収めた例としては、パラグアイカルロス・アントニオ・ロペス大統領による改革、タイチャクリー改革トルコアタテュルク主義エジプトエジプト革命メキシコベニート・フアレス改革が挙げられる。

日本は明治維新によって列強と化したことにより、アジア諸国では数少ない植民地にならなかった国となった。明治維新は欧米列強に抑圧されたアジア諸国にとって近代化革命の模範ともなった。やがて日本自身が列強側の国家として、帝国主義的な領土・権益獲得を行う立場となったが、それが行使されたのは台湾や朝鮮、中国の一部という限られたものに終わり、イギリスやアメリカ、オランダなどのように本土から遠く離れた地を植民地支配下に置くようなことはなかった。

一方、ほとんどのアジア諸国で挫折ないし不可能だった近代化革命が、なぜ日本においてのみ成功したのかについても近年研究が盛んとなっている。孫文やスカルノマハティール・ビン・モハマド毛沢東をはじめ、その他アジアの指導者はほぼ例外なく明治維新に何らかの関心を持っており、その歴史的価値についての問い直しが盛んとなっている。
エジプトとの比較論

中東社会学者の山口直彦は、エジプト史での比較を論じている。

エジプトの初代大統領ナセルは、『アラブ連合共和国国民憲章』の中で「エジプトがその眠りから醒めた時、近代日本は進歩に向かって歩み始めた。日本が着実な歩みを続けることに成功したのと対照的に、個人的な冒険によってエジプトの覚醒は妨げられ、悲しむべき弊害を伴った挫折がもたらされた」と記している[168]

エジプトで失敗した近代化が日本で成功した理由について、明治の日本は教育制度が整っていた上に、「有司専制」などという批判もありつつも、議会や民権政党、マスコミなど政府批判勢力が常に存在して行政のチェック機能が働いていたのに対し、エジプトにはこれがなかったため、君主が個人的な私情や私欲に突き進みやすかったことがあるという。明治政府は外債に慎重で返済能力を越えない現実的な範囲に留めてきたが、エジプトは君主の独走で計算もなく法外な利息の外債に頼り続け、その結果、財政破綻と植民地化を招いたことが指摘されている[168]

一方エジプト革命から半世紀以上前にオラービー革命を起こしたアフマド・オラービーは、近代化改革が日本で成功した理由について、日本の地理的条件の良さが背景にあると分析していたという。具体的には幕末から明治初期の日本は生糸しか主要産業がなく、イギリスやフランスにとっての日本の価値は大市場であるの付属品、あるいは太平洋進出のための薪炭・水の補給地でしかなく、スエズ運河を有するエジプトに比べて重要度が低かったことがあるという[169]
東アジア・東南アジアの開発独裁と明治維新の違い

明治維新の通説として、天皇を戴いた排他的な藩閥政権が、立憲政治の進展を遅らせながら、経済と軍事の近代化に邁進したとするような解釈があるが、日本政治史研究の坂野潤治と産業政策研究の大野健一は、このような解釈は、事実に相反していると批判する[7]。このような通説では、明治政府は、台湾?介石政権(1949-75)、タイサリットタノム政権(1958-73)、韓国朴正煕政権(1961-79)、シンガポールリー・クアンユー政権(1965-90)、中華人民共和国ケ小平政権(1976-97)、マレーシアマハティール政権(1981-)などの開発独裁のイメージと重ねられた[7]。開発独裁の特徴は、1)内外危機への対応、2)強力な指導者、3)指導者を支えるエリート、4)政治改革を後回しにした開発イデオロギーの最優先、5)民主的手続きではなく経済成果に基づく正統化、6)20-30年の同一体制の継続などがあるが、これらのうち明治維新との共通項は1)の内外危機への対応くらいであると坂野-大野は指摘する[7]

坂野-大野によれば、明治政権は、単純な独裁体制が何十年も存続したわけではなく、カリスマ的指導者が上意下達の命令を下したわけでもなく、経済の近代化を最優先したわけでもなく、政権の正統性を天皇の権威のみに依存したわけでもなかった[7]。明治維新は、「富国強兵」と「公議輿論」の複数の目標、細かく分ければ、「富国」と「強兵」と「議会」と「憲法」の四目標の並列的競合を通じて、それに指導者間の合従連衡、また指導者らによる目標の優先順位の自由な変更を通じて達成された[7]。明治の変革期においては、指導者も固定的ではなく、優先される路線は数年ごとに入れ替わり、勝利した集団も敗退した集団も永続的にその地位にいたわけではなく、これは開発独裁のような単一目標の追及や単純な政治構造や単線的進行とは異なる、極めて複雑な局面展開をともなう柔構造モデルであったという[7]
関連作品
歴史小説

島崎藤村夜明け前』(1935年)

『第一部上』、 ⇒『第一部下』、 ⇒『第二部上』、 ⇒『第二部下』青空文庫、新字新仮名)


司馬遼太郎

『竜馬がゆく』(1963-1966年)、『燃えよ剣』(1964年)、『』(1968年)、『歳月』(1969年)、『世に棲む日日』(1971年)、『坂の上の雲』(1972年)、『花神』(1972年)、『翔ぶが如く』(1976年)、『胡蝶の夢』(1979年)


大佛次郎天皇の世紀』(1974年)

吉村昭『桜田門外ノ変』(新潮社 1990年)、『幕府軍艦「回天」始末』(文藝春秋 1990年)、『生麦事件』(新潮社、1998年)、『彰義隊』(朝日新聞社 2005年)

ドラマ

NHK大河ドラマ八重の桜』(2013年)では、会津藩が舞台となり、会津戦争の様子も描かれている。


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