明治維新
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日本の武士は、主君に雇われた「給与生活者・従業員」であったため、西欧の封土や、中国の貴族階級の領土制や朝鮮両班よりも土地との結びつきが弱く、身分が不安定であった[32]。ゴードンは、明治革命をフランス革命と比べて不完全な革命とするようなこれまでの評価は、ヨーロッパ中心主義的な評価にすぎず、非西欧地域の歴史をその固有な条件に即して理解しようとするものではないため有用でないとし、西欧を基準とせず、同時に、明治革命が世界の近代革命と同様に持続的な激動のプロセスであったことを認識することが肝要であるという[32]

日本政治思想史研究の渡辺浩は、「明治革命・性・文明」(2021年)で、明治革命とフランス革命は、身分制を壊して中央集権体制をつくった点で共通すると評価する[153]。渡辺は「あれほどの大変革が革命でないとしたら、何が「革命」なのでしょう? かつて、「皇国史観」派は、日本に「革命」があったとは認めたくなかった(この語の元来の意味は、「王朝交代」ですから)。マルクス主義者の多くは、真の「ブルジョア革命」ではなかったと考えた。こうして左右の意見が一致して、革命ではなく、単に「維新」だ、ということになり、今に至っているのです。でも、「維新」は単に新しくなることです。そこで、徳川の世には、今いう「寛政の改革」を「寛政維新」とも言います。「ブルジョア革命」であろうとなかろうと、あの不可逆的な大変革を、たかが「維新」などと呼ぶ方がおかしくないでしょうか。」と説明する[154]

ウェイクフォレスト大学のR.ヘルヤーとハイデルベルク大学のH.フュースも、明治維新はアメリカ革命やフランス革命と同等の革命的分水嶺として位置付けられるという[155]

日本近代史研究者で東京大学名誉教授三谷博は、明治革命は「君主制ピヴォットとする世襲身分制の解体という近代世界史上でも有数の革命」とする[156]。比較革命史で見ると明治維新による犠牲者は極めて少なく、その要因に、「公論」による政治の決定や、長期的危機を予測し、その対応に成功したことなどが挙げられるという[157]。三谷は以下のように考察する。

ナショナリズムの役割。戊辰戦争の死者数が約13600人、西南戦争の死者数が約11500人、倒幕運動側の死者数が約2500人で、復古の反対勢力の死者数は不明だが、明治維新における政治的死者数は、27600人?3万人と推計できる[156]。これに対して、フランス革命での政治的死者数は国内の死者は約40万人、フランス革命戦争での死者数は約115万人、合計約155万人とされる[156][158]。また、20世紀の中国の国共内戦が175万[159]文化大革命での犠牲者は1000万人以上である[156]。明治維新における政治的死者数が少なかった理由には、徳川家と新政府が戦争を極小に抑えたこと、特に江戸開城による戦争回避が主因とされ、戊辰戦争も抵抗者が限定され、短期間で終わった[156]。このほか、大名や上級武士らが、「御家(おいえ)」に代えて「日本」レベルのナショナリズムを持ったために世襲的特権の剥奪に抵抗しなかったこともあげられる(幕末の尊王攘夷論の目的は鎖国を守るためでなく、日本の根本的改革にあった[156][160])。フランス革命では、革命派は、「国民化」を阻む抵抗勢力であった貴族、王党派、ヴァンデーの農民などを殺戮し、さらに革命派は、周辺の君主国との戦争を回避せずに選択したために[161]、大量の犠牲が出た[156]。フランスではすでに三部会において「国民」が権力の源泉とされ、新秩序を対等に構成する集合的主体として重視されていたが、日本では「国民」による秩序構想が支持されたのは明治10年代であった[162]

分権制中央集権。江戸時代の幕藩体制は連邦国家であり、君主が二人いる(徳川将軍と天皇)双頭国家であった[156]清朝のような一極集中型の組織は解体が難しいのに対して、分権制は解体も再編も容易であるが、ただし、インドジャワのように、分権制であったがゆえにその隙をついて外部勢力が国家統合をなした場合もある[156]。近世日本は双頭・連邦国家であったが、維新によって単一国家としての「日本」が創出された[162]。フランスでは革命前より単一国家で、封建領主の連合体からは脱却していたが、一部で貴族による支配と王権による支配とが混在していた[162]。しかし、中央集権体制が完成したのは革命とナポレオン体制であったことから、国家の統合という点では明治維新とフランス革命は同様の結果を産んだ[162]

間接アプローチ戦略廃藩を実現しようとした新政府は、廃藩を急激に進めると諸大名からの抵抗を受けると予想し、間接アプローチ戦略をとって、廃藩置県より前に地均らしとして版籍奉還を建議した[156]。版籍奉還は、江戸期の将軍代替わりに伴う統治許可証返還の慣習を拡張したものであったために、諸大名からの抵抗はほとんどなかった[156]。戊辰戦争では、新政府は各大名に銃隊のみの編成を命じた。これにより、上級家臣は従者も伝統的武芸も使うことができなくなった[156]。動員で財政が逼迫した藩は統治権の返上を申し出たところもあった[156]

君主制による改革。維新で君主権強化を主導したのは大名の家臣であり、いわば領主と庶民の間の中間層であった。維新は君権を押し立てた意味では「上からの改革」であったが、内実は中間層による「下からの改革」であった[156]。新政府は御誓文で「広く会議を興し、万機公論に決すべし」と宣言し、これが民撰議院設立建白書などでも繰り返し引用され、国是となり、立憲政治が定着していった[156][* 7]。誓文以前にも安政期から「公議」「公論」は重視されており、これが誓文で確認されており、ここに経路依存性がある。さらに、室町期以降には天皇は政治的決定権を喪失していたという経路依存性もあり、こうして天皇と朝廷は明治維新において「公論」を受け入れ、憲法による君権の制限も受け入れることができた[156]。これは19世紀の朝鮮や清朝が君権制限に強く抵抗したことからみても、例外的であった[156]

復古。明治維新は西洋文明を取り入れながら、神武創業という神話的な始源への復古が唱えられた。一方、フランス革命でも進歩が提唱されながら、古代ローマ式の誓いのポーズや、凱旋門建設や月桂冠の戴冠など古代ローマ復古の象徴が用いられた[156][* 8]。また、江戸時代の役人も政策を提言する際には、先例(古例)を引用するのが慣例であり、明治維新が「復古」を用いたのは特殊でも奇異でもなかった[156]。また、西洋での王政復古は、革命以前の世襲貴族の支配を復元し、「国民」や「民主」という秩序規範を否定しようとする「反動」の運動であったのに対し、明治維新での「王政復古」は、人々の「国民」化や「公論」を促進した[163]

変革の速度。1863年までは尊攘派と公議政体追求のふたつの運動が拡大し、尊攘派は最後の局面で徳川公儀打倒を計画したが、公然と「倒幕」を主張するものは少数にとどまり、散発的なテロルを除けば暴力は行使されず、「倒幕」が急進化しても、中間派はクーデターでこれを抑え、1868年の王政復古クーデターで軍事力は行使されなかった[162]。長州は公武合体体制に挑戦し、薩摩の支援を得て、徳川軍の撃退に成功した。王政復古クーデターで徳川家による政権独占は否定された[162]


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