明治維新
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文部省東京大学史料編纂所編纂『大日本維新史料』では、弘化3年(1846年)2月の孝明天皇践祚から明治4年(1871年)の廃藩置県に至る25年間が維新資料としてまとめられた[38]

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}狭義では明治改元に当たる明治元年旧9月8日1868年10月23日)となる。しかし、一般的にはその前年に当たる慶応3年(1867年)の大政奉還王政復古以降の改革を指すことが多い[要出典]。

終了時期についても、廃藩置県(明治4年、1871年)、封建復帰を目ざす士族の反政府運動が終わった西南戦争(明治10年、1877年)や[5]内閣制度の発足(明治18年、1885年)、立憲体制の確立・大日本帝国憲法発布(明治22年、1889年[5]までとするなど諸説ある。

この期間の政府(一般的には慶応3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古以後に成立した政権(維新政権[39])を明治政府(めいじせいふ)、新政府(しんせいふ)、維新政府(いしんせいふ)ともいう。
幕末の情勢と江戸幕府の崩壊
政治状況戊辰戦争中の薩摩藩の藩士(着色写真)。フェリーチェ・ベアト撮影四国連合艦隊による下関砲撃(馬関戦争)幕末の外圧については「幕末の砲艦外交」を、幕末当時の国際関係や政治状況については「幕末」を参照

一般的に、明治維新の始まりは黒船来航に象徴される欧米列強の経済的・軍事的拡大政策に対する抵抗運動(攘夷運動)に起源を持つとされる。

19世紀、江戸幕府の支配体制は綻びが見え始めていた。ロシア、アメリカをはじめとする外国船の来航と通商要求や、フェートン号事件モリソン号事件などの外圧の高まりに加えて、宝暦事件明和事件大塩平八郎の乱といった内紛・内乱や民衆運動である打ちこわしが盛んになった。老中松平定信国学者の本居宣長などは大政委任論を唱え、幕府の政治は天皇から委任されたものと考える見方が主流化し、国学者や水戸学を中心に尊皇思想尊王論が広まっていった。

19世紀半ばのアヘン戦争以後、欧米による帝国主義政策の影響が東アジアに浸透するにつれ、水戸学等の国学を基盤として、外国勢力を排斥して江戸幕府開闢以来の基本政策である鎖国政策幕藩体制を維持しようとする攘夷思想が現れた。しかし江戸幕府開国・通商路線を選択したため、攘夷思想は尊王論と結びつき、朝廷の権威のもと幕政改革と攘夷の実行を求める尊王攘夷運動として、武士階層を中心に広く普及していった。

一方、幕府側の開国・通商路線を是認する諸藩の中にも、いわゆる雄藩を中心に、幕府による対外貿易の独占に反対し、あるいは欧米列強に対抗すべく旧来の幕藩体制の変革を訴える勢力が現れた。これらの勢力もまた朝廷を奉じてその要求を実現させようとしたため、京都を舞台に朝廷を巡る複雑な政争が展開されることとなった。そのような風潮の中、薩英戦争下関戦争などにおいて欧米列強との軍事力の差が改めて認識されたことで、観念的な攘夷論を克服し、国内の政治権力の統一や体制改革(近代化)を進め、外国との交易によって富国強兵を図り、欧米に対抗できる力をつけるべきだとする「大攘夷」論が台頭し、尊王攘夷運動の盟主的存在だった長州藩も開国論へと転向していくことになった。イギリス外交官アーネスト・サトウの論文『英国策論』の和訳が横浜のジャパン・タイムズに掲載され、天子主権論と討幕を理論づけた。ただこの書の内容は、英国留学中の薩摩藩士松木弘安が英国の外務大臣に提出したものとの類似性が指摘されている[40]明治天皇(明治6年〈1873年〉10月、内田九一撮影)

幕府は公武合体政策を掲げ、尊王攘夷派の攘夷要求と妥協しつつ旧体制の存続を模索したため、外国勢力の脅威に直面していた急進的な雄藩の支持を失っていった。またこの時期、黒船来航以来の幕府の威信の低下と世情不安の高まりを背景として農民一揆が多発するようになった。このような情勢の中、諸侯連合政権を志向する土佐藩越前藩らの主張(公議政体論)や、より寡頭的な政権を志向する薩摩藩の主張など、国政改革のために幕府を廃して朝廷の下に中央集権的な政治体制を樹立しようとする構想が幕政において急速に支持を集めていった。結果としてこれらの改革勢力の協力の下に王政復古が宣言され、古代律令制中世建武の新政に中央集権的王権統治の先例を求めつつも、天皇欧米列強諸国の君主同様に近代国家主権者として統治する体制を採る明治政府が誕生した。戊辰戦争による旧幕府勢力の排除を経て権力を確立したこの新政府は、薩摩・長州両藩出身の官僚層を中心に急進的な近代化政策を推進していくこととなった。明治初期の政治状況については「明治時代」を参照
自然災害と疫病安政2年(1855年)安政江戸地震直後の鯰絵。地震を起こすとされた大鯰を懲らしめる。

幕末に諸外国からの開国圧力が強まる中、大地震が続発した。弘化4年(1847年)には長野で善光寺地震が起き、山崩れでせき止め湖決壊などのため、1万人を超す犠牲者が出た[36]ペリー来航直前の嘉永6年(1853年)3月に小田原地震M6.7、震度7、江戸の震度4-5)が起きた。翌年日米和親条約が締結されると、伊賀上野地震(M7.3)が発生し、以降、13回の地震が連発する安政の大地震が発生した[36]。嘉永7年には、南海トラフ巨大地震である安政東海地震安政南海地震(M8.4、震度7)、豊予海峡地震(M7.4、震度6)が発生し、幕府は災異改元安政に改元するが、安政2年に飛騨地震M7.5)、陸前地震、安政江戸地震(M6.9-7.4、推定死者1万人)が発生した[36]。安政3年にも安政3年の大風災で台風と高潮が江戸を襲い(推定死者10万人)[36]安政八戸沖地震(M6.9-8.0)が発生した。安政4年に芸予地震(M7.3)が発生、安政5年(1858年)の飛越地震(M7.1、震度7)では鳶山崩れも併発し、常願寺川のせき止め湖が二度決壊して下流に大被害を出した[36]

安政5年にはコレラも流行し、江戸だけで死者が3万人[36]から30万人に及んだ[41]


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