明治維新
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他に Meiji Ishin[24]、Meiji restoration and revolution[3]、Meiji Revolution(明治革命)[25][1]、Meiji Renovation[26]などが見られる。

維新は英語で王政復古を意味する Restoration と表記されることが多いが、これは慶應3年12月9日(1868年1月3日)に岩倉具視らが上程した大令(いわゆる王政復古の大号令)の中の王政復古の英語訳であるとされる[2]。先帝(孝明天皇)頻年被惱宸襟(しんきん)候御次第、衆庶之知る所に候。依之叡慮を決せられ、王政復古、国威挽回ノ御基(もとい)立てさせられ候間、自今、摂関幕府等廢?し… ? 大令(王政復古の大号令)[2][27]、慶應3年12月9日(1868年1月3日)

英国外交官フランシス・O・アダムスの『日本史』(1874-75)ではこの大令を「a basis should be formed for a return to the ancient form of government by the Sovereign,and for the restoration of the national dignity」と説明された[28]。この場合、restoration は「王政復古」ではなく、「国威挽回」の訳語として用いられたが、日本政治思想史研究者の苅部直は、日本の開国後出版された西欧人による初めての日本紹介であるアダムスの『日本史』から、慶応三年の改革を restoration と呼ぶ用法が定着していったのだろうと指摘する[2]

他方、ウィリアム・グリフィスの The Mikado's Empire (『ミカドの帝国』、1876年)では、将軍政権の崩壊とミカド(天皇)の最高権力への復帰(restoration)が目撃されたとし、最近の日本では、対外政策の転換、社会改革、西洋文明の受容の三重の政治革命 (a three-fold political revolution) が進行していたと認識していた[2][29]。苅部によれば、幕末から明治にかけての体制転換は、徳川公方から京都の天皇への単なる政権交代というだけでなく、公儀または幕府が大名と朝廷を統制するそれまでの国家全体の体制を改めることであり、様々な制度改革を通じて、身分に基づく支配などが廃止され、西洋文明への受容へと大きく舵が切られたような、社会の急激な変化であり、また、当時の日本国内ではこのような世の中を根本から立て直そうとする動きは「御一新」として歓迎されたことなどからも、このような体制転換にふさわしい英語は revolution であり、これは同時代の日本人が抱いた実感でもあったという[2]。また、明治政府が「維新」でなく「革命」と表現していたら、「明治革命」と言った名称も定着していた可能性もあったという[2]

なお、徳富蘇峰竹越與三郎[2]や、北一輝らは[6]、「維新革命」という呼称を用いた。

中村政則は、明治維新は復古(Restoration)、改革(Reform)、革命の三つの側面を持ち、どの側面を強調するかで評価が異なってくると1986年に指摘した[30]

21世紀に入ると「明治革命」を使用する研究者が多くなり、日本政治史研究の坂野潤治[7]日本近代史研究の三谷博[1]、日本政治思想史研究の渡辺浩[8]、歴史学者マリウス・バーサス・ジャンセン[31]アンドルー・ゴードン[32][33]らは「明治革命・Meiji Revolution」という呼称を用いる。

なお、三谷博は、Restorationを訳語に使うと、天皇の国家の頂点への復帰だけに注意を集め、維新が世襲身分制のほとんどを廃棄した大規模な革命であった事実をおおいかくしてしまうので、Revolutionでは誤解もあるのなら、regeneration(再生、改革、刷新などの意味)という訳語を提案した[34][* 1]
改革の時期

維新の時期については諸説ある。明治維新の始期として、天保年間(1831 - 1845年)に置く考えがある[5]天保年間には、天保の大飢饉(天保4 - 10年、1833 - 1839年)によって100万人以上が犠牲となり、天保騒動などの百姓一揆や、大塩平八郎の乱(1837年)が発生した[5][36]

また鎖国を批判した渡辺崋山高野長英を弾圧する蛮社の獄があり、天保の改革でも飢饉対策の成果はなかった[5][36]。天保13年(1842年)にはアヘン戦争が敗れ、イギリス大英帝国)の強さを知った幕府は異国船打払令を廃止し、遭難船を救済する薪水給与令を定めた[36]

始期として、黒船来航嘉永6年、1853年)または不平等条約であった安政通商条約の締結(1858年)に置く見方もある[5]

1889年(明治22年)に完成した官選史料集復古記』では、慶応3年(1867年)の大政奉還から明治元年10月28日1868年12月11日)の東征大総督解任までが扱われた。当初の復古記編纂案では、嘉永7年(1853年)のペリー来航から大政奉還までを前記、大政奉還から東征大総督解任までを正記、戊辰戦争記を外記と区分していた[37]

文部省東京大学史料編纂所編纂『大日本維新史料』では、弘化3年(1846年)2月の孝明天皇践祚から明治4年(1871年)の廃藩置県に至る25年間が維新資料としてまとめられた[38]

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}狭義では明治改元に当たる明治元年旧9月8日1868年10月23日)となる。しかし、一般的にはその前年に当たる慶応3年(1867年)の大政奉還王政復古以降の改革を指すことが多い[要出典]。

終了時期についても、廃藩置県(明治4年、1871年)、封建復帰を目ざす士族の反政府運動が終わった西南戦争(明治10年、1877年)や[5]内閣制度の発足(明治18年、1885年)、立憲体制の確立・大日本帝国憲法発布(明治22年、1889年[5]までとするなど諸説ある。

この期間の政府(一般的には慶応3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古以後に成立した政権(維新政権[39])を明治政府(めいじせいふ)、新政府(しんせいふ)、維新政府(いしんせいふ)ともいう。
幕末の情勢と江戸幕府の崩壊
政治状況戊辰戦争中の薩摩藩の藩士(着色写真)。フェリーチェ・ベアト撮影四国連合艦隊による下関砲撃(馬関戦争)幕末の外圧については「幕末の砲艦外交」を、幕末当時の国際関係や政治状況については「幕末」を参照


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