明治維新
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長州藩吉田稔麿穢多非人・屠勇などの被差別部落民の兵士取り立てを献策し、元治元年(1864年)に「一新組」が、慶応2年(1866年)に「維新団」が結成された[13][14]

慶応2年(1866年)(または慶応3年)、国学者の玉松操による岩倉具視への返答に「維新」が出てくる。『岩倉公実記』によれば、岩倉具視に意見を求められた玉松操は次のように回答した。王政復古は務めて度量を宏くし規模を大にせんことを要󠄁す。故に官職制度を建󠄁定せんには、當に神󠄀武帝?の肇󠄁基に原づき、寰宇の統一を圖り、萬機の維新に從ふを以て規準と爲すべし ? 慶応2年(1866年)(または慶応3年)、玉松操発言[2]

玉松においては、旧江戸幕府政権からの権力の移譲は、「征夷大将軍」という官位を「禁裡様」(天皇)へ返上するという形で行われたもので、これは易姓革命でいう王朝交代ではなかったため、「革命」でなく「維新」の表現が選ばれた[2]。明治政府もこれを踏襲した[2]

慶応3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古の大号令において「民ハ王者之大寶百事御一新」と表記された[15]

尾佐竹猛によれば、新政府は王政復古の大号令においては「王政復古、国威挽回」を述べ、根本的大改造という意味で「百事御一新」と宣伝したが、この「御一新」が「維新」という語になり、初めは「王政維新」と言っていた[16]。「明治維新」の語が現れたのは1890年に憲法が公布される数年前のことと見られ[17]、「王政維新」の語は戦後も使用されている。

革命初期の公文書には政体復古・天下一新・朝政一新という表記がなされた。『太政官日誌』は慶応4年2月14日(1868年3月7日)から記録されているが、同日東久世通禧は各国公使に「政体復古」を報告している[18]。二月十四日 午の半󠄁刻より申の刻までに 大坂西本願寺に於󠄁て

醍醐大納󠄁言殿 東久世前少將殿 宇和嶋少將殿 各國公󠄁使󠄁と應接の始末 左の如し但 外國事務係 及󠄁び 諸󠄀藩家老列座

東久世殿發話 我日本 政體復古帝?自ら政權を握し 外國の交󠄁際も 一切朝廷󠄁にて曳請󠄁 裁判󠄁致可 …  ? 『太政官日誌』第一

慶應4年2月28日の「幕府御親征の詔」では「天下一新」とある[19]。慶應4年3月14日(1868年4月6日)の億兆安撫国威宣揚の御宸翰では「朝政一新」とある。旧暦9月8日(10月23日)に改元が行われ、明治元年12月23日(1869年2月4日)の東久世中将からイギリス公使ハリー・パークスに宛てた公文書綴では「朝政一新」とある[20]

明治2年(1869年)正月には、木戸孝允大村益次郎宛書簡で「大政一新」と書き、岩倉具視は「大政維新」と書いた[12][21]

公文書における「維新」の用例としては、明治3年1月3日の宣布大教の詔に「今や天運循環し、百度維新(これあらた)なり、宜しく治教を明らかにし、以て惟神(かむながら)の道を宣揚すべきなり」とある[22]

明治5年(1872年)9月刊行の沖志楼主人『維新御布告往来 : 童蒙必読』には「皇政復古、綱紀御維新(ゴセイジムカシカヘリ ゴキソクアラタニナリ)」とある。
英語での翻訳:restoration と revolution

英語表記は Meiji restoration [23]が多く、「明治の(王政)復古」の意味になる。他に Meiji Ishin[24]、Meiji restoration and revolution[3]、Meiji Revolution(明治革命)[25][1]、Meiji Renovation[26]などが見られる。

維新は英語で王政復古を意味する Restoration と表記されることが多いが、これは慶應3年12月9日(1868年1月3日)に岩倉具視らが上程した大令(いわゆる王政復古の大号令)の中の王政復古の英語訳であるとされる[2]


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