明治大学文学部
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旧制の専門部文科は全在籍者の卒業をもって廃止されることとなったが、希望者については試験(外国語)のうえで新制文学部に移行することも認められた。のちの考古学者大塚初重も旧制からの移行組である[23]

1950年(昭和25年)に史学科を史学地理学科と改称し[24]、考古学専攻を設置した。同年11月17日の明治大学創立70周年記念式典に昭和天皇が臨幸し、記念館3階の貴賓室で後藤守一の説明を受けながら登呂遺跡の模型や出土品の展示を見学した[25][26]明大通り沿いにそびえる大学院校舎。5・6・7号館はこの裏側に建てられた。

学部発足時は現在のアカデミーコモンの場所にあった木造モルタル2階建ての校舎を使用した。旧軍の兵舎を移築したものらしく雨天時は雨漏りがひどく、床板は妙にきしむ、暖房設備もない劣悪な環境の下で学生たちは勉学に励んだ。1957年(昭和32年)に現在の紫紺館の場所にあった小川町校舎に移転したが、大通りに面して自動車の騒音がやかましく、内部構造も教室向きではなかったため、なんとなく落ち着かない校舎だったという。

その後鉄筋コンクリート5階建ての6号館(旧山脇服飾美術学院跡地)、7号館(旧文学部校舎跡地)、5号館(旧短大校舎跡地)が相次いで建てられ、現在のリバティタワーができるまで一部の3・4年生と二部の全学年は主にこれらの校舎を使用した[27][28]

大学院の研究室1954年(昭和29年)に竣工した大学院校舎の4階に置かれたが、程なくして8階に移転した。この校舎の南端には鐘楼が設けられ、毎日正午と午後5時に明治大学校歌のメロディを奏でたが、わずか1、2年ほどで演奏をやめてしまった。近隣の某大学から「白雲なびく駿河台」は騒音だとの苦情が寄せられたためともいわれているが、真偽は定かではない[29]。設計ミスや建設費高騰の問題から評議員と理事会の対立、果ては専教連闘争にまで発展するなど[30]、多くのエピソードを生んだ大学院校舎も5・6・7号館とともに解体されて現存しない。

戦後の文学部でも著名な文学者や小説家を教授陣に迎え入れる伝統は受け継がれた。のちの作詞家阿久悠(1955年入学)は明治大学への志望動機として久松潜一土屋文明舟橋聖一中村真一郎中村光夫平野謙などの教授陣の顔ぶれに魅かれたからだと語っている[31]

2002年に心理社会学科、2004年に文学科に文芸メディア専攻を設置。さらに2018年、心理社会学科に哲学専攻を設置して現在に至る。
年表吾輩は猫である』は漱石の明大在職時代に書かれた史学地理学科考古学専攻は1950年に誕生した(私学初)

1905年 - 課外講義の文学研究会を設置し、夏目漱石上田敏らが授業を始める。

1906年 - 専門学校令による文学部を設置(翌々年学生募集停止)。

1931年 - 明治大学創立50周年を機に文科復活運動が起こる。

1932年 - 専門部文科を設置、文芸科(昼間)・史学科(夜間)・新聞高等研究科(昼間)の3科を置く。

1933年 - 史学科に1年制の専修科を設置[32]

1934年 - 山本有三女の一生』の印税を寄付、山本文庫設立。

1935年 - 史学科卒業生の中等学校歴史科教員資格認可。

1938年 - 演劇映画科を設置(のちに形骸化)、史学科を地理歴史科に改組。

1941年 - 地歴科卒業生の中等学校地理科教員資格認可。

1944年 - 地歴科の学生募集停止(翌年再開)。

1946年 - 旧制文学部への昇格を検討(実現せず)。

1948年 - 旧制専門部文科の学生募集はこの年が最後[33]

1949年 - 新制文学部設置(学部長:渡辺世祐[34]、文学科長:吉田甲子太郎、史学科長:後藤守一)。

1950年 - 一部(昼間)文学科に日本文学専攻と独文学専攻を設置、史学科を史学地理学科と改称、考古学専攻を設置。

1951年 - 旧制専門部文科廃止、文学部校舎完成(木造2階建て、現在のアカデミーコモンの場所)、「駿台史学」創刊。

1952年 - 大学院文学研究科を設置、考古学陳列館開設。

1954年 - 新聞高等研究科廃止、大学院博士課程を設置、「文芸研究」創刊。

1956年 - 学芸員養成課程を設置。

1957年 - 大学院文学研究科増設認可、小川町校舎に移転(現在の紫紺館の場所)。

1958年 - 駿河台6・7号館完成(現在のアカデミーコモンの場所)。


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