明治三陸地震
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震度[2]観測所
上北郡仙北郡強首村、仙北郡千屋村亘理郡
十勝大津村函館)、青森町(測)、三戸郡北津軽郡下北郡胆沢郡鹿角郡稗貫郡秋田市(測)、仙北郡、山本郡能代港町相馬郡石城郡北村山郡東田川郡由利郡宇都宮市(測)、東京市(中央気象台)
微 - 弱宮古町(測)
根室(測)、二戸郡南岩手郡、西岩井、南九戸郡西閉伊郡気仙郡南秋田郡平鹿郡沼館村、北秋田郡鷹巣村福島町(測)、刈田郡山形市(測)、西置賜郡東村山郡飽海郡東茨城郡安房郡甲府市(測)、境町

明治三陸大津波明治三陸津波の遡上最高地点。大船渡市三陸町綾里

大津波の第一波は、地震発生から約30分後の午後8時7分に記録されている。到達した範囲は北海道から宮城県にわたった。

遡上高[注 3]は、北海道庁幌泉郡(現北海道幌泉郡えりも町)の襟裳岬では海抜4m、青森県三戸郡八戸町近辺(現在の八戸市内丸あたり)で3m、宮城県牡鹿郡女川村(現女川町女川浜女川)で3.1mであった。岩手県の三陸海岸では下閉伊郡田老村(現宮古市田老地区)で14.6m、同郡船越村(現下閉伊郡山田町船越)[注 4]で10.5m、同郡重茂村(現宮古市重茂)[注 5]で18.9m、上閉伊郡釜石町(現釜石市釜石)[注 6]で8.2m、気仙郡吉浜村(旧気仙郡三陸町吉浜、現大船渡市三陸町吉浜)で22.4m、同郡綾里村(旧気仙郡三陸町綾里、現大船渡市三陸町綾里)で21.9mと、軒並み10mを超える到達高度を記録している[12]

特に綾里湾[注 1][注 7]の奥では入り組んだ谷状の部分を遡上して、日本の本州で観測された津波では当時もっとも高い遡上高である海抜38.2mを記録した[注 8]小説家吉村昭は、ルポルタージュ三陸海岸大津波』のために、この災害に関する証言収集の一環として、1970年(昭和45年)に岩手県田野畑村羅賀を訪問した。津波発生時に10歳であった中村丹蔵(インタビュー当時85歳)から海抜50m近くあった自宅にすごい勢いで津波が浸水してきたという証言を得た[13]と記しているが、海洋学者三好寿は「件の老人の家は、国土地理院の地図によると海抜25m程度に位置し、50mという値は『吉村と老人の会話の食い違い』から生じた誤認であった」との見解を示している[14][注 9]文春文庫版p25-27、p117によれば、自宅を現地調査のうえで執筆しており、自宅で『40mぐらいはあるでしょうか』という筆者の問いに、村長(早野仙平)が『いや、50mはあるでしょう』と答えている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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