大津波の第一波は、地震発生から約30分後の午後8時7分に記録されている。到達した範囲は北海道から宮城県にわたった。
遡上高[注 3]は、北海道庁幌泉郡(現北海道幌泉郡えりも町)の襟裳岬では海抜4m、青森県三戸郡八戸町近辺(現在の八戸市内丸あたり)で3m、宮城県牡鹿郡女川村(現女川町女川浜女川)で3.1mであった。岩手県の三陸海岸では下閉伊郡田老村(現宮古市田老地区)で14.6m、同郡船越村(現下閉伊郡山田町船越)[注 4]で10.5m、同郡重茂村(現宮古市重茂)[注 5]で18.9m、上閉伊郡釜石町(現釜石市釜石)[注 6]で8.2m、気仙郡吉浜村(旧気仙郡三陸町吉浜、現大船渡市三陸町吉浜)で22.4m、同郡綾里村(旧気仙郡三陸町綾里、現大船渡市三陸町綾里)で21.9mと、軒並み10mを超える到達高度を記録している[12]。
特に綾里湾[注 1][注 7]の奥では入り組んだ谷状の部分を遡上して、日本の本州で観測された津波では当時もっとも高い遡上高である海抜38.2mを記録した[注 8]。小説家・吉村昭は、ルポルタージュ『三陸海岸大津波』のために、この災害に関する証言収集の一環として、1970年(昭和45年)に岩手県田野畑村羅賀を訪問した。津波発生時に10歳であった中村丹蔵(インタビュー当時85歳)から海抜50m近くあった自宅にすごい勢いで津波が浸水してきたという証言を得た[13]と記しているが、海洋学者・三好寿は「件の老人の家は、国土地理院の地図によると海抜25m程度に位置し、50mという値は『吉村と老人の会話の食い違い』から生じた誤認であった」との見解を示している[14][注 9]文春文庫版p25-27、p117によれば、自宅を現地調査のうえで執筆しており、自宅で『40mぐらいはあるでしょうか』という筆者の問いに、村長(早野仙平)が『いや、50mはあるでしょう』と答えている。羅賀には、海岸から360m、標高25-28mのところに津波石がある。明治三陸地震津波で打ち上げられ、高さ2m以上、重さは約20tあるという。遡上高はもっと高かった。東日本大震災での羅賀地区での遡上高は27.8mだった。
三陸海岸の北部は40年前の安政3年(1856年)に発生した安政八戸沖地震においても津波を受けているが、波高も高くなく被害も限定的だった。このことが、津波に対する軽視や油断を生んだ可能性も指摘されている[15]。
なお、この日は旧暦では5月5日にあたっていたが、当時のこの地域では依然として旧暦によって祝い事をする人々も多く、端午の節句の祝いを行っている最中に津波の直撃を受けた例も多かったという[16]。 アメリカ合衆国のハワイ州には全振幅2.4- 9.14mの高さの津波が到来し[17]、波止場の破壊や住家複数棟の流失などの被害が出た[18]。また、アメリカ本土ではカリフォルニア州で最大9.5ft(約2.90m)の高さの津波を観測した[18]が、被害は記録されていない。 日本国内は緯度の高い地域から、国外は震源に近い地域から、順に記載する。数値は最大値。 国地域波高
日本国外への余波
津波の観測値(まとめ)
(海抜)遡上高
(海抜)
日本北海道庁幌泉郡(現北海道幌泉郡えりも町)の襟裳岬04m