19世期に清朝が弱体化し、ヨーロッパ諸国が中国に進出するようになると、まず中国への興味から、その風習などと共に文字が紹介された。中国進出を誇示する目的もあって、ナポレオン1世とパルマ公によってそれぞれ作られた『主の祈り』という本に使われた活字はフランス王立印刷所やジャンバッティスタ・ボドーニ(イタリア語版)の印刷所などヨーロッパの印刷所で彫られたものである。その後中国研究が始まり、中国語の辞典や文法書などの印刷のために漢字活字の開発が必要とされた。清の時代は直接の布教活動が許されていなかったが聖書や小冊子での布教は許されていたため、宣教師により翻訳が始められた[3][5]。東アジアに既に存在した製版技術を利用せず、金属活字の技術を持ち込んで使った。そしていずれも漢字を活字にするに当たって明朝体を選択した。これは欧文の印刷で普通だったローマン体(漢字活字の開発は主に英仏米の勢力が中心であった)とテイストが合っていたためといわれる[3]。宣教の場面では、活字はヨーロッパで使われていたものを使用したり、現地で使用するのに木などに活字に彫って製作した。
ヨーロッパで使用されていたもので、初めてまとまった量が作られたのはルイ14世の命によるフランス王立印刷所の木活字(1715?42年)であった。この活字はのち、ナポレオン1世の中国語辞書編纂のために拡充された。その後ジャン=ピエール・アベル=レミュザの『漢文啓蒙』で使われた活字は、鋳造活字であった。木活字も鋳造活字もともに明朝体であった。19世紀中葉、王立印刷所のマルスラン・ルグラン (Marcellin Legrand) は中国の古典の印刷を目的として活字制作を依頼され、明朝体の分合活字を製作した。ルグランの分合活字では、偏旁冠脚をそれぞれ分割して、より少ない活字製作で多くを賄おうとしたがデザインは劣悪であった[3][6]。
キリスト教宣教では、主にプロテスタントが伝道を担った。彼らは伝道する地域の言語で伝道することを重視し、そのために漢字活字の開発が重要だった。ヨーロッパから、例えばルグランの分合活字などの活字を取り寄せることもあったが、現地で活字を開発するものも多くあった。サミュエル・ダイア (Samuel Dyer) など幾例かがあるが、その代表例は上海の「英華書院」や「美華書館」である。英華書院は London Missionary Society Press の漢訳名で、倫敦伝道会 (London Missionary Society) の宣教師が設立したものであり、美華書館は American Presbyterian Mission Press の最後期の漢語名称で、美北長老会差会 (American Presbyterian Mission) の印刷所であった。特に後者では、6代館長にウィリアム・ギャンブル(中国語版)が入り、スモール・パイカ(small pica = 11ポイント[7]。普通のパイカ(pica)は12ポイント)のサイズなどの活字の改刻を行った。これらのミッションプレスの活字は欧米から来た技術者が指導して制作された金属活字で、サイズも自国の活字サイズに基づくものであった。活字の大きさは、特定の大きさのみを作り、大きい方から順に「1号」、「2号」……と呼んでいた[3]。
美華書館は一時上海で隆盛を誇ったが、美華書館の活字を二次販売する商務印書館などの業者が現れ、廃業する。 日本に明朝体が入ってきたのは明代や清代に仏典や四書などを輸入したものを再版したことに興る。特に大規模なものは、黄檗宗僧侶・鉄眼道光禅師による一切経の開刻であった。その後もこれらの用途では明朝体は使われていたが、楷書が使われるほうが多く、一般にいたっては「御家流」と呼ばれる連綿体の一種が主流であった。
日本
明治末期から昭和にかけて活字のサイズがアメリカン・ポイント制へ移行した。ベントン母型彫刻機を導入して新たに活字を供給する事例が出現した。一字ずつ木に父型を彫り、電胎法で母型を得てそこから活字を作る蝋型電胎法とは異なり、ベントンは一字ずつ原字パターンを制作しそれを基に機械的に縮尺を行って母型を得るものであった。ベントンの導入の際、より細い字形を作った。
昭和に入って写真植字の開発も行われ、嚆矢となる写研の石井明朝体は築地活版の12ポイント活字を利用して作られた。以後も写植では活字からの翻刻書体が開発・利用されることがあった。写植ではファミリーが形成され、特に太いウェイトの字形では、横線を極端に細く、縦線を極端に太くされた。
1949年に当用漢字字体表が告示されると、各社は新字体によった字体に変更し始めた。この時、当用漢字字体表の字体に筆押さえなどのエレメントがなかったのを、これも字体変更のうちと判断し、新字体への変更と同時に取り除かれることがあった。しかしこれは当用漢字字体表の字体は手書きであるために筆押さえがないのであり、筆押さえなど明朝体に特有のエレメントがないのは改悪だとの批判もあった。
日本語デジタルフォントの初期はビットマップフォントが使われていた。字体はJISに準拠することになるが、JIS X 0208の2次規格(通称JIS83)により、漢字の字体変更や入れ替えが行われたことで混乱が生じた。アウトラインフォントが実用化されると、モリサワがPostScriptフォントとしてリュウミンを投入したことをはじめ、幾多の会社が活字の復刻・翻刻書体や新規書体を開発して市場に投入した[8]。 日本で活版印刷を実現する場合、仮名の鋳造も必要となる。 明治20年代、明朝体の仮名の出発点であり東京築地活版製造所による書体、「築地体前期五号」が完成した[3]。ただし、明治7年には使われていたものとする説も存在する[9]。漢字に合わせるため手書きのニュアンスを外し記号性を強めている[3]。明治30年代には「後期五号」が完成し、明朝体の基本となった[3]。 印刷技術の向上や印刷紙の質の劣化に伴い、1910年頃から文字を細くする傾向が生まれる。印面がシャープに刷りあがるということから始まった。加えて日中戦争に向かうにつれ印刷用紙が劣悪になり、それまでの文字では滲んで使い物にならないというのがその傾向に拍車をかけた。細字化とカナ文字派の「仮名の視認性の向上」などの動きから、仮名文字を大きく形作る書体がさまざまに試みられ、それまでの小ぶりな字(文字の中の白い部分が狭い=懐が狭い)から、懐が広く「明るい」字が作成されるようになった。 1929年に実用化された写真植字機と、1950年代以降日本の金属活字の製造で一般化したベントン母型彫刻機では、一つの原字から複数のサイズで同じ字形を生成することができるようになった。これにより、写植時代に同じ字形で太さが異なる書体群(ファミリー)が発生した[10]。 1951年、写研により石井明朝体のニュースタイルかなが発売された[11]。書体作者の石井茂吉の弟が教科書会社に勤めていたこともあり、教科書体の流れを汲んだ書体となっている[12]。また、この書体以降明朝体の仮名にニューかな系が増加した[12]。 日本語の表記において仮名の比重が増すにつれて、仮名フォントの重要性も高まり、仮名だけを変えて使うという例も増えた。例としては、モリサワのフォントリュウミンの仮名を「リュウミン オールドかな」に置き換えて使用するものなどがある[13]。 最近まで日本の用語の影響で、同様のハングルの書体を、韓国語で明朝体(???
かな
韓国パタン体(上)
参照[脚注の使い方]^ 『絶対フォント感を身につける。』エムディエヌコーポレーション、2018年、022頁。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 978-4-8443-6820-5。