明暦の大火
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本妙寺失火説

本妙寺の失火が原因とする説は、以下のような伝承に基づく。なお、この伝承が振袖火事の別名の由来にもなっている。お江戸・麻布の裕福な質屋・遠州屋の娘・梅乃(数え17歳)は、本郷の本妙寺に母と墓参りに行ったその帰り、上野の山ですれ違った寺の小姓らしき美少年に一目惚れ。ぼうっと彼の後ろ姿を見送り、母に声をかけられて正気にもどり、赤面して下を向く。梅乃はこの日から寝ても覚めても彼のことが忘れられず、恋の病か、食欲もなくし寝込んでしまう。名も身元も知れぬ方ならばせめてもと、案じる両親に彼が着ていたのと同じ、荒磯菊柄振袖を作ってもらい、その振袖をかき抱いては彼の面影を思い焦がれる日々だった。しかし痛ましくも病は悪化、梅乃は若い盛りの命を散らす。両親は葬礼の日、せめてもの供養にと娘の棺に生前愛した形見の振袖をかけてやった。

当時、棺にかけられた遺品などは寺男たちがもらっていいことになっていた。この振袖は本妙寺の寺男によって転売され、上野の町娘・きの(16歳)のものとなる。ところがこの娘もしばらくして病で亡くなり、振袖は彼女の棺にかけられて、奇しくも梅乃の命日にまた本妙寺に持ち込まれた。寺男たちは再度それを売り、振袖は別の町娘・いく(16歳)の手に渡る。ところがこの娘もほどなく病気になって死去、振袖はまたも棺にかけられ、本妙寺に運び込まれてきた。さすがに寺男たちも因縁を感じ、住職は問題の振袖を寺で焼いて供養することにした。住職が読経しながら護摩の火の中に振袖を投げこむと、にわかに北方から一陣の狂風が吹きおこり、裾に火のついた振袖は人が立ち上がったような姿で空に舞い上がり、寺の軒先に舞い落ちて火を移した。たちまち大屋根を覆った紅蓮の炎は突風に煽られ、一陣は湯島六丁目方面、一団は駿河台へと燃えひろがり、ついには江戸の町を焼き尽くす大火となった。

この伝承は、矢田挿雲が細かく取材して著し、小泉八雲も登場人物名を替えた小説を著している。伝説の誕生は大火後まもなくの時期であり、同時代の浅井了意は大火を取材して「作り話」と結論づけている。
幕府放火説

江戸の都市改造を実行するため、幕府が放火したとする説。

当時の江戸は急速な発展による人口の増加にともない、住居の過密化をはじめ、衛生環境の悪化による疫病の流行、連日のように殺人事件が発生するほどに治安が悪化するなど都市機能が限界に達しており、もはや軍事優先の都市計画ではどうにもならないところまで来ていた。しかし、都市改造には住民の説得や立ち退きに対する補償などが大きな障壁となっていた。そこで幕府は大火を起こして江戸市街を焼け野原にしてしまえば都市改造が一気にできるようになると考えたのだという。江戸の冬はたいてい北西の風が吹くため放火計画は立てやすかったと思われる。実際に大火後の江戸では都市改造が行われている。一方で、先述のように江戸城にまで大きな被害が及ぶなどしており、幕府放火説の真偽はともかく、幕府側も火災で被害を受ける結果になっている。
本妙寺火元引受説

本来、火元は老中阿部忠秋の屋敷だった。しかし「火元は老中屋敷」と露見すると幕府の威信が失墜してしまうため、幕府が要請して「阿部邸に隣接する本妙寺が火元」ということにして、上記のような話を広めたとする説。

これは、火元であるはずの本妙寺が大火後も取り潰しにあわなかったどころか、元の場所に再建を許されたうえに触頭にまで取り立てられ、大火前より大きな寺院となり、さらに大正時代にいたるまで阿部家が多額の供養料を年ごとに奉納していることなどを論拠としている。江戸幕府廃止後、本妙寺は「本妙寺火元引受説」を主張している。
影響『むさしあぶみ』より。車長持に荷物を満載して避難する人々

大奥ではこれ以前は髪を結い上げることがなく安土桃山時代と同様の垂髪だったが、これ以降は一般武家や町人と同様に日本髪を結うようになった。

大奥女中らが表御殿の様子がわからず出口を見失って大事に至らないように、松平信綱は畳一畳分を道敷として裏返しに敷かせて退路の目印(避難誘導路)とし、そのあとに大奥御殿に入って「将軍家(家綱)は西の丸に渡御されたゆえ、諸道具は捨て置いて裏返した畳の通りに退出されよ」と下知して大奥女中を無事に避難させた。

多数の民衆が避難する際、下に車輪のついた長持「車長持」で家財道具を運び出そうとしたことで交通渋滞が発生、死者数の増大の一因となったことから、以後、車長持の製造販売が三都で禁止された。

この大火の際、小伝馬町伝馬町牢屋敷には150から300人ほどの囚人が収監されていたが、牢屋の炎上も時間の問題となった。牢屋の町奉行が管理しており、奉行所から何の通達もなかったことから、囚人たちが焼け死ぬのは必定であった。牢屋奉行の石出帯刀吉深は焼死を免れない囚人たちを憐れみ、独断で牢屋の鍵を壊し、囚人たちを集めて「この大火が収まったら必ず戻ってこい。もし、この機に乗じて雲隠れする者がいれば、地の果てまでも追い詰めて、その者のみならず一族郎党まで成敗する。だが、素直に戻れば、たとえ死罪の者でも、自分の命に代えても助けてみせよう」と申し渡し、囚人たちを逃がした。囚人たちは涙を流して吉深に感謝し、後日、全員が牢に戻ってきた。吉深は「たとえ囚人とはいえ、彼らは立派に義に報いてみせた。このような義理堅い者たちを、みすみす殺してしまうのは国の損失である」と幕閣に囚人たちの助命嘆願をし、幕府も吉深の意見を容れて囚人たちの刑を減免した。以後、緊急時に囚人たちを一時的に釈放する「切り放ち」が制度化され、江戸時代に計15回の切り放ちが行われた。

当時74歳だった儒学者・林羅山は、この大火で自邸と書庫が焼失して衝撃を受け4日後に死去した。

当時、江戸に参府していたオランダ商館長(カピタンツァハリアス・ヴァグナー一行も大火に遭遇した。1979年5月10日のテレビ番組歴史への招待』で「八百八町炎上す」と題して江戸の火事を放送した翌日、視聴者からこの一行の1人が描いたとみられる「1657年、江戸の大火」と題する水彩画が提供された[10]

将軍家の家宝で天下三肩衝のひとつ・楢柴肩衝がこの大火で破損し修繕されたが、まもなく所在不明になっている。

明暦の大火ではその被害にもかかわらず、朝廷では災害防止の祈祷が行われず、翌年1月の大火を受ける形で同年3月5日になって初めて内裏紫宸殿において江戸の火災を受けた災害祈祷が行われていることから、このことが幕府の怒りを買って後西天皇の退位につながったとする説がある[11]

台東区の田原町駅近辺にある仏壇通りは、幕府がこの一件の後に寺院を一所に集め、それに伴って神仏具専門店が集まったことでできた専門店街である[12]

題材にした作品

魔界転生』- 1981年の映画、深作欣二監督。クライマックスの舞台となっている。

銭形平次捕物控』-「火の呪い」において火災の一部が慶安の変において処刑をまぬがれた由井正雪の残党による放火だったという設定になっている。


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